ベギン出身のマルグリット・ポレート著作「単純な魂の鏡」 2



マルグリット・ポレート著作 「単純な魂の鏡」


第七章 いかにしてこの魂は、高貴なのか、また、何ものをも執着しないのか。

愛は言います、
 「この魂は、恥辱も、名誉も、貧困も、富も、安楽も、不安も、愛も、憎しみも、地獄も、天国にも執着しません。」

理性は言います、
 「ああ、愛よ、あなたはいったい何を言おうとしているのですか。」

愛は言います、
 「何を言おうとしているのでしょうか。それは、神からその理解を授けられた者だけが知っています。
 聖書は、記していません、
 人間の五つの感覚では、把握できません、
なぜなら、被造物の努力では、とうてい理解することも把握することもできないのです。
 この賜物は、至高者から授けられる恩寵であり、その中に被造物であるこの魂は、あり余る知識によって引き上げられ、自分自身の持っている理解の範ちゅうにこの知識を収めることはできず、超えているため、何も言葉に記されず、何も残っていないのです。
 こうして、この魂は無となり、すべてを持ちながら何も持たず、すべてを欲しながら何も欲せず、すべてを知りながら何も知らないのです。」

理性は言います、
 「愛よ、『この魂はまったく意志をもたない』と、この書は先に述べていましたが、≪それならば≫いったいどうして、この魂はこの書が述べる目的のものを欲しうるということがありうるのでしょうか。」

愛は言います、
 「理性よ、それを欲するのは、この魂の意志ではなく、神の意志がこの書の述べる目的のものを魂のうちで欲するのです。
 愛のうちにこの魂がとどまり、愛が魂になんらかの欲望によってそれを欲せしめるというのではないからです。
 かえって、愛が魂のうちにとどまり、魂の意志を奪い去り、そのようにして、愛は魂を神の意志に従わせるのです。
 したがって、愛は魂のうちで魂の意志なしに働き、それゆえ、魂のうちにとどまりうるいかなる不安もないのです。なぜなら、完全な愛の充満は恐れをしりません。
 この魂は、もはや神について語ることはできません。そのすべての外的欲望に関して、内面の感情に関して、霊の情動に関して空しくされているからです。
 そうして、この魂は自分がなすことを正しい慣習に倣って、あるいは、聖なる教会の掟に従い、何の欲望もなく自然に行うのです。
 なぜなら、この魂にあずかる欲望の意志は、死んでしまったのです。」


第八章 どうして理性は、この魂が諸徳を見限ったことに驚くのか、また、愛は諸徳を讃えるのか。

理性は言います、
 「ああ、神よ、粗野な事柄しか理解せず、繊細な事柄をなおざりにしますが、これは、なんと不思議なことでしょう。この魂は、恩寵の感覚や霊的欲望をまったくもっていないのです。あらゆる魂に正しく生きる道を教えてくれる諸徳にいとま乞いをしてしまったのですから。
 諸徳なしには、誰も自らを救うことも永遠の命の完成に至ることもできません。
 一方、諸徳に恵まれる者が、欺かれると言うことはありえないのですが、この魂は、いとま乞いをしてしまいました。このように語るこの魂は、無分別ではないでしょうか。」

愛は言います、
 「とんでもありません。
 なぜなら、このような魂は、他のいかなる被造物よりも諸徳に恵まれているのです。しかし、諸徳を必要としていません。なぜなら、昔とは違ってこのような魂は、諸徳のものではないのです。十分彼らにお仕えしてきたのでいまや自由の身の上となったのです。」

愛は言います、
 「ああ、理性よ、間違いなく、このようにして解放された魂は、支配が何をなすことを常としているのか多くの日々見てきたのです。
 こうした魂に、『被造物が経験しうる最大の苦しみは何か?』と、質問してみれば、
『愛のうちにとどまり、諸徳に服従することです』と、答えるでしよう。
 たとえ、自然をどれほど犠牲にしても、諸徳の要求にはすべて応えなければならないからです。
 実際、諸徳は、名誉も、財産も、心も、体も、命も、要求します。
これは、こうした魂は、≪すべてのものを捨てる≫ということを意味しますが、それでもなお諸徳は、一切を与え、自然を励ますような何ものも手元に残しておかなかったこの魂に、
 「かろうじて義人は、救われる(Tペトロ4:18)」と言うのです。
 そのため、いまだに諸徳に仕えている哀れな魂は、もし、最後になって救われることが決まっているのなら恐怖に襲われ、
 『審判の日まで地獄で責め苛まれるほうがましです』と言うのです。」

愛は言います、
 「これは真実です。諸徳が力をふるう魂は、このような支配(律法に似ています)の下に暮らしています。しかし、今お話ししている魂は、諸徳をあるべき所に置きました。
 こうした魂は、諸徳のためには何もせず、かえって、こうした魂の欲する一切を諸徳が、支配することも異論を唱えることもなく行うからです。
 なぜなら、こうした魂は、諸徳の主人なのです。」





第九章 どうしてこうした魂は、まったく意志をもたないのか。


 「このような強固さと平和そして、自由な魂に、
 『煉獄にいたいのですか』と、問えば、『いいえ』と、答えましょう。
 『現世において己れの救済の確信を得たいのですか』と、問えば、『いいえ』と、答えましょう。また、
 『天国にいたいのですか』と、問えば、『いいえ』と、答えましょう。
 では、こうした魂は、いったい何を欲するのでしようか。
 何も欲しないのです。まったく意志をもたないのです。
 何か欲することがあれば、こうした魂は、愛から離れてしまうでしょう。このような魂にとって何が有益なのかは、魂の意志を所有する御方が知っており、それを知らなくても、また、保証がなくても、魂には十分だからです。
 こうした魂は、知識と愛と讃美を糧に生きており、それが、こうした魂の習慣的営みであって、自ら活動することはありません。
 知識と愛と称讃が、その魂のうちにとどまっているからです。こうした魂は、自分が善いか悪いかを知りえず、自分自身についての知識はまったくもたず、自分が善心に立ち返っているのか邪悪の道に陥っているのか判断できないでしょう。」
愛は言います、
 「あるいは、もっと簡単にお話しすることもできます。
 たとえば、貧困も、苦難も、ミサも、説教も、断食も、祈りも、求めることも、また、ないがしろにすることもなく、自然にとって必要なものはすべて、良心の阿責もなく、自然に与えるような魂を取り上げてみましよう。
 しかし、このような自然は、この魂の意志が、結合した愛の一致による変容を通して正しく律せられ、禁じられているようなことは要求しないのです。
 こうした魂は、必要なときを除いて、自分に必要なもののことを思い煩うことはありません。そして、罪を知らない人を除いて、何人もこの思い煩いなしにすますことはできません。」

理性は言います、
「ああ、いったい何を言おうとしているのでしようか。」

愛は言います、
 「理性よ、私はこう答えます、すでに述べたように、そしてもう一度言いますが、いかなる自然の感覚の教師も、聖書の教師も、また、諸徳への服従の愛のうちにとどまる者も、このことをしかるべく理解することはないでしょう。
 理性よ、疑ってはなりません。
 慈愛を求める者以外、誰もこうした魂の言葉を理解することはできないと思います。
 この賜物は、ときとして一瞬のうちに授けられますが、それを授けられた者は大切にしなければなりません。神が被造物に授ける最も完全な賜物だからです。
 この魂は、神性の励ましを受け、謙遜の谷と真理の平野に座り、愛の山に憩います。」


第十章 理性の求めに応じ、活動的な人々のために、愛はこの魂をどうして、12の名前で呼ぶのか。

理性は言います、
 「ああ、愛よ、この魂をその正しい名前で呼んで、活動的な人々にこの魂について多少なりともお教え下さい。」

愛は言います、
 「この魂は、12の名前で呼ぶことができます。すなわち、
 実に驚くべきもの。
 未知なるもの。
 エルサレムの娘たち(雅歌1:5,2:7,3:5など)のなかで最も罪を知らないもの。
 聖なる教会全体が、そこに礎(いしずえ)を置くもの。
 知識に照らされたもの。
 愛に飾られたもの。
 讃美に生きるもの。
 謙遜によってあらゆることにおいて空しくされたもの。
 神の意志によって神のうちに安らかであるもの。
 神の意志以外、何も欲しないもの。
 三位一体の業により、神の善意に何も欠けることなく満ち足り充ち溢(あふ)れたもの。
 忘却。
これら12の名前を愛は、この魂に与えています。」

純粋なクルトワジーは言います、
 「確かに、この魂がこう呼ばれるのはまったく正しいことです。これが、この魂の正しい名前ですから。」

理性は言います、
 「ああ、愛よ、あなたはこの魂を多くの名前で呼びましたが、そのおかげで、活動的な魂は多少なりとも知識を得ることができます、たとえ、あなたが挙げた高貴な名前を聞くことによってでしか他に知る方法がないとしてでもです。」

・・・No.3につづく、

本書は、全139章から成る。
翻訳の底本
Marguerite Porete, Le mirouer des simples ames, édité par Romana Guarnieri/
Margaretae Porete, Speculum simplicium animarum, cura et studio Paul Verdeyen
(Corpus Christianorum. Continuatio Mediaevalis LXIX), Turnhout 1986
(= R. Guarnieri, Il movimento del Libero Spirito. Testi e documenti, Archivio Italiano per la Storia della Pietà, vol. IV, Roma 1965, pp. 513-635)

現代語訳
Marguerite Porete, Le Miroir des âmes simples et anéanties et qui seulement demeurent en vouloir et désir d'amour. Introduction, traduction et notes par Max Huot de Longchamp, Paris 1984; Margareta Porete, Der Spiegel der einfachen Seelen. Wege der Frauenmystik. Aus dem A1tfranzösischen übertragen und mit einem Nachwort und Anmerkungen von Louise Gnädinger, Zürich/München 1987; Marguerite Porete, The Mirror of Simple Souls. Translated and introduced by Ellen L. Babinsky. Preface by Robert E. Lerner (The Classics of Western Spirituality), New York/ Mahwah 1993; Margherita Porete, Lo specchio delle anime semplici. Con una nota di Angelo Morino. Traduzione di Donata Feroldi, Palermo 1995; Margaret Porette, The Mirror of Simple Souls. Translated from the French with an Introductory Interpretative Essay by Edmund College, J. C. Marler, and Judith Grant and a Foreword by Kent Emery, Jr., Notre Dame, Indiana 1999.


【 参考文献 】


上智大学中世思想研究所/編訳監修:冨原眞弓




聖なる読書と伝説「薔薇窓」:http://baramado.info/ 著者:Joanne del apocalypse







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