| ベギン出身のマルグリット・ポレート著作「単純な魂の鏡」 1 |
マルグリット・ポレート著作 「単純な魂の鏡」
数世紀にわたって著者不明のまま世に現れた、「単純な魂の鏡」(Mirouer des simples ames)は、フランス語で書かれた原典から、14,15世紀には、ラテン語、イタリア語、英語に翻訳され啓示を受けた正統な信仰の証しによる信心書としてヨーロッパ中で広く読み継がれていた。 どの写本も著者の名前を伝えておらず、ラテン語訳,英語訳写本では最終章に三人の聖職者の推賞が添えられており、そのうちの一人は、パリ大学神学部教授フォンテーヌのゴドフロワ(1250以前〜1306/09年)だと言う。
この著作の著者が、マルグリット・ポレート(Marguerite Porete 1310年6月1日没)であることを最初に指摘したのは、イタリアの学者R.グァルニエーリによる1946年の論文だった。 マルグリットの生涯とその悲劇的死を知る手がかりは、宗教裁判の記録と、この事件の経過を略述する数種の年代記が残されている。 異端審問の裁判記録によれば、マルグリットはエノー(Hainaut )出身のべギンであり、彼女の著書は、1306年カンブレ(Canmbrai)の司教によって異端の有罪宣告を受け、ヴァランシエンヌ(Valenciennes)広場で焼かれた。 1309年4月、マルグリットの著作が、二度目の検閲対象となった。フランス管区総審問官パリのギョーム(Guillaume de Paris 1314年没)の管轄下、12名のソルボンヌ神学者によって、彼女の著作から異端の疑いのある15項目が審理された。 マルグリットは、逮捕されて以来、宣誓することを拒み、審問官の質問にも答えなかった。 5月31日再背教者(relapse)として有罪を宣告を受け、1310年6月1日、パリのグレーヴ広場の火刑台上で焚刑が執行された。 ある年代記は、彼女の毅然とした態度が群衆の涙を誘ったと伝えている。
裁判記録も年代記もこの著作名を明らかにしていない。しかし、異端の根拠となった15項目のうち3項目は、「単純な魂の鏡」の記述に対応しており、この著作がマルグリット・ポレートの著作にほかならないことを示している。
a)「裸の貧しく(空しく)された魂は、諸徳にいとまごいをし、もはや諸徳に仕えません。諸徳を必要とせず、かえって、諸徳が、〔魂〕について来るからです」
b)「このような魂は、神の慰めも神の賜物をも思い悩んであてにすることがありません。そうすべきでもないし、またそうすることもできません。この魂の関心事は、完全に神に向けられているからですが、また、神への配慮のために妨げられてしまうからです」
c)「創造者の愛のうちに裸に貧しく(空しく)された魂は、良心のけん責も呵責(かしゃく)もなく、自然が求め、望むすべてを自然に与えることができ、またそうすべきです」 (Margaretae Porete, Speculum simplicium animarum 8,ed.P. Verdeyen, CCCM69, Turnhout 1986)
『単純な魂の鏡』 は、擬人化された神、魂、愛、理性などが登場して問答対話形式を使用したわかりやすい神秘神学信心書に類する。 霊の命を生きるの7つの存在様式をたどって、魂が謙遜の谷から観想の山頂へどのように登っていくのかを語っている。 人間の霊魂が、最も高い第5,第6の存在に到達できるためには、自由な(franche)魂だけとされる。これを簡単に見て理解する方法として、カルメル山登攀の図が役立つだろう。
第5段階、魂は、自分が罪を負った最低の存在、無であることを知る。 自分の意志を神にお返しして完全に神の意志と一致するように促される。
第6段階、魂は、神のうちにたたずみ、空しくされ、霊の一致が実現する。 感覚の嗜好や感情の喜怒哀楽や期待や恐れなどあらゆるこの世的思考から解放され、無が全てとなり、全てが無となる。魂は、完全な自由と平和を手に入れ、徳も、苦行も、祈りも、業も無用とし、自分の救済にすら無関心になる。 (神は、人間のように喜怒哀楽などの感情を必要としない。痛みや悲しみや恐れは、人間の肉体を持つ人間特有のものと言える。人間が勝手に神を擬人化して感情を持たせりするが、神性そのものには、人間の感情と言ったものはない。同様に、人間が考えているような善悪判断の知性や理性と言った思考ではない。全知全能万物の根源である神は、人間ではないから、神の霊の領域に人間の霊魂が安らぐ時、神の霊の内にひたることになる。)
第7段階、永遠の栄光において愛が私たちに授けるものであり、魂が肉体を離れるまで誰もそれについて語ることはできない。
マルグリットの教えは、自由心霊派の異端と不当に混同され、ヴィエンヌ公会議(1311〜12年)において断罪されたが、今日では彼女の神秘霊性は、正統な神秘神学の伝統に連なり、その枠組みの中でこそ正しく評価されると言われている。 『単純な魂の鏡』は、声に出して読み聞かせることを意図して書かれたため、文体がリズミカルで且つ、韻文の詩もあったりする。
「空しくされ、ひたすら愛の意欲と望みのうちにとどまる単純な魂の鏡」
第一章 序 言 第1の恩寵の状態において神によって触れられ罪を捨てた魂は、神の恩寵によって第7の恩寵の状態へと高められる。 この状態において、魂は十全なる完成を得る。
愛は話します、 「活動的な人々よ,観想的な人々よ,真の愛によって空しくされた人々よ,解放された魂の純粋な愛、高貴な愛、崇高な愛の力について、どのようにして聖霊が、この魂にご自身の船ように帆を張ったのかをこれからお聞きになる人々よ、心から皆様方に懇願します、」 と愛は言う、 「あなたがたの持てる繊細な知性を大いに働かせ、熱意をふくらませて聞いて下さいますように。もし、怠れば、これからお話を聞く人々は、皆それを誤解することでありましょう。 これから世俗の愛についてのささやかな譬(たとえ)話に謙遜の限りをつくして耳を傾け、そして神の愛についてもこれと同じように理解していただきたいのです。」
世俗の譬え話。 「昔あるところに王の娘である気高く高貴な、また高潔な心根の一人の姫君がおり、異国に暮らしておりました。アレクサンドロス王の大いなるクルトワジーと高貴さの噂を耳にし、その意志は王の貴族ぶりなる名声ゆえに彼をただちに愛したのでした。しかし、姫君は自分が思いをかける大殿とは、あまりに遠く離れて暮らしていたので、彼を見ることも得ることも叶わず、しばしば心を痛めていたのでした。 この愛をのぞいていかなる愛も心を満たしてはくれなかったからです。自分の心の内ではすぐ近くにあるこのはるかな愛が、心の外ではあまりに遠くにあるのを見て、彼女は心にしばしば痛手を負わせる恋人の面影を思い描くことで悲しみを慰めようと思いついたのでした。 そこで、愛する王の似姿を表す絵を、できるだけ自分に好ましく思われる姿形に似せ、心を捕えて離さない愛への思いに従って描かせました。そして、この絵を使って、またほかにも工夫を凝らし、彼女は王その人を夢想したのです。」
魂は言います、 「まったく同じようにと、この書を書かせた魂が言う、私も同じようにあなたがたに言います。強大な権勢を誇る一人の王、高貴さと気前の良さの偉大なクルトワジーにより、高貴なアレクサンドロスのような一人の王の噂を私は耳にしました。 しかし、彼は私から、私は彼からあまりに遠く離れていましたので、私は慰めを得ることができず、そこで王は、ご自身の愛をなんらかのかたちで表しているこの書を私に与えたのです。王の形象を得ることができたとはいえ、やはり私が異国にあることに変わりはありません。この殿のいとも高貴な友人たち―それは、住まいを共にするこの王の賜物により、まったく純粋で洗練され解放された人々です―が暮らす宮殿からは遠く離れているのです。」
作者 「そこで、私たちは小さな者たちがあなたがたの口を介して聞くことができるように、いかにしてわれらの主が愛からまったく自由ではなく、一方、愛は私たちのために主から自由であるのかということをこれからお話しいたしましよう。愛は誰にも悪を行うことはなく、全能だからです。 そして愛は、あなたがたのためにこのように述べています。 『もし被造物が完全なあり方に至るまですべてのあり方を辿る覚悟をするならば、高貴な存在の七通りのあり方があり、そこから被造物はひとつのあり方を授けられるのです。』 では、それがどのようにしてなのかをお話ししましよう。」
第ニ章 愛のご計画についてまた、なぜ愛はこの書を作らせましたか。
愛 「聖なる教会の幼な子たちよ、」 と、愛は言います、 「あなたがたが耳を傾け、被造物が完全な慈愛(charité)の徳―これは全き三位一体から与えられる賜物ですが―を通して到達することができる生の完成と平和のあり方をよりいっそう受けるに値するよう、あなたがたのためにこの書を作りました。 この書の中で、理性の問いかけに応じて愛の理解が、この賜物について説き明かすのをお聞きになって下さい。」
第三章 愛は聖なる教会の掟(おきて)について話します。
愛は言います、 「ここで私たちは、神のご加護によりこの書の中からおのおのがその糧を得ることができるように、聖なる教会の掟から話を始めましょう。 私たちが心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛し、また私たち自身をしかるべく、そして私たちの隣人を自分と同じように愛することを神は、お命じになっています。 〔マタイ22:37〜39,マルコ12:30〜31,ルカ10:17〕 心を尽くして神を愛するというのは、私たちの思いが常に本当に神のうちになければならないということです。魂を尽くしてというのは、命に代えてでも真理しか語ってはならないということです。力を尽くしてというのは、私たちの業は、すべてただ神のためにのみなされなければならないということです。」
( 一瞬たりとも心を神からそらして被造物に心を奪われるようなら、この掟を守ったとはいえません。 真理以外の冗談やジョーク、ウソやブラックジョークはもっての他です。悪ふざけで人をけなすことは、すでにこの掟を破っています。 少しでも、ギブアンドテイクや、見返りを求めた行動は、この掟に逆らっています。 まして、神のためにではなく、愛する恋人のために、好きな人のために、自分が注目され、良く思われたいがためにする行いは全てこの掟を破っています。 このたった二つの愛の掟は、簡単そうで全く凡人の努力では到底不可能な掟なのです。聖人のみが可能となる境地、到達する愛の領域なのです。)
愛は言います、 「私たち自身をしかるべくというのは、行動に起こすとき、私たちの利益ではなく、神の完全な意志を見なければならないということです。 私たちの隣人を自分と同じようにというのは、自分に対してそうしてほしくはないことを、隣人に対して行なったり、考えたり、言ったりしてはならず、かえって、自分にして欲しいことを隣人にするということです。」
( しかし、自分がして欲しいからと言って、相手もして欲しいとは、限りません。また、お互いが欲っしていてもそれが、神の御目から見て罪なら、行ってはならないのです。同性愛者たちや近親間の姦淫は、この掟を破っています。 また、隣人に対して自分にして欲しくない事を考えてしまう人の方が圧倒的に多いはずです。それで、この掟を守ることは到底無理なのです。)
愛は言います、 「ある若者が、 『これらの淀を幼い頃から守ってきた。』と、イエズス・キリストに語りました。 ここでイエズスの答えに注目して下さい。 イエズス・キリストは、彼に答えます、 『完全でありたいと思うなら、あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものを皆売り払い、貧しい人々に施し、そして、私について来なさい。そうすれば、天に宝を持つようになるだろう。』 〔マテオ19:10〜21,マルコ10:20〜21,ルカ18:21〜22〕 これが徳の全き完成への助言であり、この助言を遵守する者は真の慈愛のうちにとどまるでしょう。」
( たとえ、財産を持っていなくても、既に持っているその他の資産や家柄、家族や肩書きなど全て捨てさらなければなりません。心の金持ちは、心にある全ての財産を手放なさなければなりません。情欲、食欲、金銭欲、名誉欲、権力欲、知識欲などは捨て去らなければなりません。つまり、赤貧になること、空しく貧しくなることは並大抵のことではないのです。神を愛するあまり、神のからのものをあてにすることもありません。)
第四章 慈愛の高貴な徳について、なぜ慈愛は、愛以外のものには従わないのか。
愛は言います、 「慈愛は、被造物には従わず、愛のみに従います。 慈愛は、私有物をまったく所有せず、仮に何か持っていても、それが自分のものだとは言いません。 慈愛は、自分の用事は構わず、他の人の用事をしに行きます。 慈愛は、いかなる善行を施そうと、またいかなる喜びを与えようと、誰にも報酬を求めることはありません。 慈愛は、恥辱も、恐怖も、不安ももちません。真直ぐ立ち、何が起ころうと、なえたりたわむことはありえません。 慈愛は、日の下にある何ものにも目をくれません。全世界は慈愛の残り物、おこぼれでしかないのです。 慈愛は、神からのものをすべての人々に与え、自分自身をさえ惜しみません。しかも、与えれば与えるほど神から受けることを知っているため、持ち前のこの上ない気前の良さから、神のものを約束することもしばしばあるのです。 慈愛は、商売が上手で、他の人々が損をするいたるところで儲け、他の人々がつかまり縛られる縄目を逃れます。 このようにして慈愛には、愛を喜ばすものが実にたくさんあるのです。」
完全な慈愛をもつ者は、慈愛の業によって霊の命を生きる思慕のうちに恋焦がれる(焼き尽くされる)ことに注意して下さい[Tコリント13:4〜7参照]。
第五章 空しくされた霊の命に生きる慈愛の平和と呼ばれる魂について。
(生=「霊の命に生きる」と訳したのは、生には肉体の生と霊の生の二つあり、この場合の生は、霊の生であり、この生は、キリスト教の洗礼によってはじめて受ける生のため、信仰していない人間には、霊の生はなく既に死んでいる。ただ、肉体の生のみである。このことは、キリスト教用語として「再生」とか「ボーンアゲイン」とか言われている。霊的体験の恵みを受ける人もいるが、例外なく洗礼と共に霊の再生は、起こるためただ、信仰によって生きればよいのです。)
愛は言います、 「ところで、もうひとつの別の霊の命に生きる方法があり、私たちはそれを空しくされた霊の命に生きる慈愛の平和と呼んでいます。」
「この生き方について、その魂が見出されうるかどうか尋ねながら、私たちは語りたいと思うのです。すなわち、 1.この魂とは、 2.業を行わず信仰によって救われ、(この地上に生きている限り“信仰”が必要) 3.ただ愛のうちにあり、 4.神のために何もせず、(ひたすら神に注視して他に何もできない) 5.神のために何も放棄せず、(愛と希望と信仰しか持っていない) 6.何も教えられることはありえず、(何も知りたいとは欲せず) 7.何も奪われることも、 (何も持っていないので) 8.何も与えられることもありえない、(何も得たいとは欲せず) 9.そして、まったく意志をもたないような魂なのです。(神に意志を奉献した魂)」
愛は言います、 「ああ、この魂に不足しているものをいったい誰が与えられるでしょうか。 かつてもこれからも与えられることはないでしよう。」
愛は言います、 「この魂には、熾天使のように六枚の翼があります。 これは、熾天使の愛と神の愛とのあいだにはいかなる仲介もありません。 熾天使は常に仲介を通さず知らせを受け取ります。 同じように、この魂も仲介なくダイレクトに受け取ります。 なぜなら、この魂は現世の教師たちのあいだ学識を求めるのではなく、現世と自分自身をへりくだらせ蔑視のうちに神の学識を探し求めるからです。 ああ、神よ、恋人から恋人へ宅配人の手を借りて渡された贈り物と、 恋人から恋人へ手ずから渡された贈り物との違いは、どれほど大きいことでしよう。」
愛は言います、 「この魂は、“六枚の翼をもっている”と、語っているのは真実です。
二枚の翼でわれらの主イエズス・キリストからその顔を覆います。 これは、神の善についての知識が増えれば増えるほど、イエズス・キリストの善のひと雫に比べれば、この魂は善の知識について何も知らないということをよりいっそう完全に知るということなのです。 キリストは、キリストによってしか把握されないからです。」
(神の無限性は、神によってしか計り知れないのです。同じく、聖と善の根源である神を知ることは到底人間には、できないのです。)
愛は言います、 「別の二枚の翼で足を覆います。 これは、私たちのためにイエズス・キリストが引き受けた受難についての知識がひとつひとつ増えれば増えるほど、私たちのためにキリストが引き受けたすべての受難と比べれば、この魂は、キリストの受難については何も知らないということをよりいっそう完全に知るということなのです。 キリストはキリストによってしか知られないからです。
別の二枚の翼で空を飛び、立ったり坐ったりしています。 これは、神の善についてこの魂が知り、愛し、讃えることすべてが空を飛ぶことなのです。立っているというのは、この魂は常に神のまなざしの下にあるからです。 坐っているというのは、常に神の意志のうちにあるからです。
ああ、この魂は、神以外の何ものをも、恐れることがありません。 何の恐れも心配も忘れさり、また思い出すことさえないでしよう。 仮に、この魂が現世にあり、世界と肉と悪魔と天変地異と空飛ぶ鳥と獣によってさいなまれ、ずたずたにされ、むさぼり食われたとしても、神が内にとどまるなら、この魂は、何も失わないのです。
なぜなら、神は全き遍在者であり、全能、全知、全き善だからです。 私たちの父であり、兄弟であり、誠実な恋人です。 始まりはなく、終わりもない、神自身によってしか把握されえません。三つの位格であり唯一の神なのです。」
魂は言います、 「これが、私たちの恋人なのです。」
第六章 慈愛の平和のうちに暮らすこの魂は、どうして諸徳にいとまごいをするのか。
愛は言います、 「こうした愛によってこの魂は、諸徳に、 『自分は長いあいだ、多くの日々あなたにお仕えしてまいりました。』 と、言うことができます。」
魂は言います、 「愛よ、この私は告白いたします。 彼らにお仕えしていた時もありましたが、。 あなたのクルトワジーが、彼らにお仕えする私を解放しました。 ですから、いまや彼らに次のように述べ、歌うことができます。 『諸徳よ、あなたがたに永遠にいとまごいをします。 私の心はもっと自由に、もっと陽気になるでしよう。 あなたがたへの奉仕は、犠牲が大きすぎます、私にはよくわかっているのです。 長いあいだ、私の心をあなたがたに委ね、少しも離れることはありませんでした。 私が、すっかり身を任せていたことは、あなたがたもご存じです。 私は、あなたがたのしもべでしたが、今は晴れて自由の身です。 私の心をすっかりあなたがたに委ねていたと自分では、よくわかっているのです。 このため、長いあいだ、非常に不安な思いで暮らしました。 いくつもの深い苦悩を忍び、幾千もの痛みに耐えました。 どうして乗り越えられたのか、生きているのが、不思議なくらいです。 でも、こうしている今では、どうでもよいことです。 私は、あなたがたからひとりだちしました。 このことを天の神に感謝します。良い日が訪れました。 私は、あなたがたの支配から逃れました。 あの支配の中で幾万もの苦しみに耐え忍びました。 あなたがたと別れない限り、私はいつも不自由でいたでしょう。 あなたがたの支配を逃れ、私は平和のうちに安らいでいます。」
・・・つづく、次回をお楽しみに。
【 注 解 】 ★「クルトワジー」とはどういう意味か? 騎士道精神に基づくプロトコル的な要素を持つ節度や儀礼的徳目と日本語に意訳される。通常は、 ●宮廷風礼節=クルトワジー、 「騎士は女性、子供・・・弱者・・・のために剣を使い、あらゆる状況において名誉ある人間として行動しなければならない。その際は各人の権利を尊重する、必要とあらば尊重させる。」 或いは、 ●至純の愛 (fine amor)における幾つかの美徳の雅びぶり=クルトワジー
と、日本語に意訳されているが、「クルトワジー」自体は、日本語辞書に存在しない表現言語でフランス語からまだ、翻訳されていない。 ここでは、騎士や武士が持つべき愛「キリスト教で示される愛、慈愛」から派生する騎士道精神,武士道精神と言えるだろう。 愛は、ラテン語のカリタス,ギリシャ語のアガペを示し、日本語では博愛や慈愛が近い。日本語の愛には、雑多な意味が含まれており、エロスもそのひとつになる。 また、ギリシャ語のテオーリアは、友人愛と訳せるだろう。友としての愛は、キリスト教では、キリストが弟子(司教)達に向かって、「私は、あなた方を友と呼んだ」と言われた言葉から兄弟愛に近いかも知れない。
「単純な魂の鏡」は、全139章から成る。 翻訳の底本 Marguerite Porete, Le mirouer des simples ames, édité par Romana Guarnieri/ Margaretae Porete, Speculum simplicium animarum, cura et studio Paul Verdeyen (Corpus Christianorum. Continuatio Mediaevalis LXIX), Turnhout 1986 (= R. Guarnieri, Il movimento del Libero Spirito. Testi e documenti, Archivio Italiano per la Storia della Pietà, vol. IV, Roma 1965, pp. 513-635)
現代語訳 Marguerite Porete, Le Miroir des âmes simples et anéanties et qui seulement demeurent en vouloir et désir d'amour. Introduction, traduction et notes par Max Huot de Longchamp, Paris 1984; Margareta Porete, Der Spiegel der einfachen Seelen. Wege der Frauenmystik. Aus dem A1tfranzösischen übertragen und mit einem Nachwort und Anmerkungen von Louise Gnädinger, Zürich/München 1987; Marguerite Porete, The Mirror of Simple Souls. Translated and introduced by Ellen L. Babinsky. Preface by Robert E. Lerner (The Classics of Western Spirituality), New York/ Mahwah 1993; Margherita Porete, Lo specchio delle anime semplici. Con una nota di Angelo Morino. Traduzione di Donata Feroldi, Palermo 1995; Margaret Porette, The Mirror of Simple Souls. Translated from the French with an Introductory Interpretative Essay by Edmund College, J. C. Marler, and Judith Grant and a Foreword by Kent Emery, Jr., Notre Dame, Indiana 1999.
【 参考文献 】
上智大学中世思想研究所/編訳監修:冨原眞弓
聖なる読書と伝説「薔薇窓」:http://baramado.info/ 著者:Joanne del apocalypse
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