クリスティーネ・エーブナーの『溢れる恩寵についての書』に記された、 エンゲルタール修道院の創始期にあらわされた奇蹟の物語 |
神秘家でありヴィジョナリーでもあった聖寵(恵み)に満ちたクリスティーネ・エーブナー (Christine Ebner 1277〜1356年)の『溢れる恩寵についての書』 より、 ニュルンべルク近郊にあるドミニコ会のエンゲルタール(Engelthal)修道院が、どのように創立されたのか、その成立初期の物語をここに私「クリスティーネ・エーブナー」は、記しましょう。
エンゲルタールの修道院の創始と、初めから今に至るまで、海がそのわきたつ力を鎮められないように抑えがたいほどの限りない神の聖徳ゆえにほとばしる、修道女らに授けられた神のおびただしい聖寵をご覧になられますように。 人は、誰一人、己れの能力で偉大なる聖性へと至ったためしはありませんでした。神ご自身が御心のなすがままに、すべての人々を聖性へと導かれたのでした。今なお神は、神の友に慈悲深い恵みを授ける力をもっていらっしゃいます。なぜなら、ただ神のみが、万物を見極めておられるからです。それゆえ、神はある者には慈悲深く、別の者にはその逆に振舞われます。こればかりは、私たち人の心に捉えきれるものではありませんが、私たちはそのために心を騒がせないようにいたしましょう。
さて、私は限りなく溢れる聖寵について書き留めておきたいと思います。 とはいえ、残念ながら私は知力も乏しく、聖書についての知識もありません。ただ神への恭順の心に駆られてこの仕事に取り組む以外に何もありません。
ハンガリー王が、その聖なるご息女エリザべト(後の聖エリザベト)をへッセン方伯に嫁がせられたおりに、王は婚礼の執り行われるニュルンべルクへ、ご息女を権勢高き身分にふさわしく、盛大に送られました。 このとき王は、アーデルハイトと言うひとりのロッテ(竪琴)弾きの女を随伴(ともな)わせました。 「娘が泣くような際には、つれづれ楽を奏して慰めてやるように。」 と、言う事でした。この女の語ったところによれば、ご息女はわずか7歳なのでした。
婚儀が済んで、聖なるご息女がその地を発たれたとき、この女楽師はもはや随行を望みませんでした。というのも、この先の全生涯を愛する神に捧げたいと願っていたからでした。
こうして、彼女は、偉大なる悔俊者にして神の花嫁となり、ニュルンべルクのある家にとどまりました。以前は、その罪深き生業のために世間によく知られていた彼女は、それゆえまさしく美徳の光明となったのでした。 ちょうどその頃、この街にはべギンの小さな共同体があり、托鉢修道宣教者たちによってわれらの聖主が、純潔と心からの恭順にいかに大きな報いを授けて下さるかについての説教が行なわれておりました。 そこでこのべギンの人々は、今述べた竪琴弾きのアーデルハイトの許へ赴き、 「天の報いに与(あずか)れるよう私たちを受け入れ、師となって下さい。なぜなら、私たちには修道院を建てるだけの資金がないのです。」 と、熱意を込めて懇願した。 この聖なる願いは、即座に聞き届けられました。 こうして、べギンの人々は、アーデルハイトの家に入り、全員がそれぞれ自分の持てるもの一切を彼女に慎んで捧げたのでした。
彼女らが、共に暮らし始めた経緯は、このようでした。 師となったアーデルハイトは、善意と誠意をもってまるでわが子のように皆を慈しみ、皆の心に神に背く考えをけっして湧き上がらせませんでした。 彼女らの生活は、まことに神聖であり、日々の営みはかくも敬虔でした。彼女らの言葉は、まことに甘美と真実に溢れ、その行いは、ことごとく非の打ちどころなく完壁そのものでした。
そのため、彼女らの暮らしぶりを眼にした者は皆、悔い改めました。 こうして彼女らの評判は、国中にも他国にも広まっていきました。すると、この国の権勢高き人々が訪れて彼女らの祝福を受けるようになりました。聖地に詣でようという巡礼たちも同様でした。信仰篤い貴婦人方もやって来ましたので、彼女らは悔俊を教え、いかに神を愛すべきかを諭(さと)しました。 彼女らは、聖ローレンツォ(聖ラウレンティウス)教会の主任司祭の管轄下に属し、彼を自分たちの正式司祭とし、彼に従っていました。 また、彼女らは、熱意を込めて修道院の副院長を選出しました。彼女は、修道士オットー・フォン・シュヴァーバハの従姉にあたる人でした。彼女は、年の頃は、30を越えてはおりませんでしたが、誠心誠意を尽くして、修道院の人々皆の上に輝く光そのものでした。 彼女らは力の及ぶ限り、日々の務めを果たしました。 終課が終わると師の許に赴き、次の日をいかに過ごすべきか指示を仰ぎ、翌日にはなすべきことどもを進んで行うのでした。食卓では、師が上座に坐しました。師はささやかな食事を終えると、ドイツ語による食卓での続誦を欠かさず行いました。 そのため、多くの者が恍惚(脱魂,幻視)となり心奪われずにすむような食事の時間はめったになく、皆まるで死者のごとくに倒れ伏しました。 実際、彼女らは、神との合一にこの地上の生を失って(脱魂)いたのです。 このような恍惚の聖寵を彼女らは働いている時も、祈っているときも、神の御言葉の甘美なる響きを耳にした折々にかならず授けられました。 ただし、ただ一人だけ法悦に与らなかった者がいました。
この聖なる生活について聞き及んだ人々は、彼女らに必要な一切を願われずとも惜しみなく寄進するようになりました。特筆すべきは、ボへミア王妃のクーニグントです。 (Kunigunde 1248年没:ヴェンツェルT世の妻、WenzelI:在位1230〜53年。) この方は、彼女らのために多くの善行を施し、貴い宝をいくばくか寄進なさりました。 この宝は、今なお私たちの修道院に残っております。彼女らはまた、へルマンという助修士を受け入れました。彼は、信頼篤い下僕のごとく一人一人に心を込めて仕えました。 異郷の人が、この聖なる修道院に何かを寄進したいと思った時にはいつも、この人が徒歩でそれを受け取りに出かけたものでした。
さて、何年かのあいだ、正確な年数まではわかりませんが、彼女らは、このようにニュルンべルクの街にとどまっておりました。ちょうどその頃、神は、教皇を通して皇帝フリードリヒを破門なさるという災いを世にもたらされました。 (皇帝フリードリヒU世:FriedrichU,在位1212〜50年は、1227年9月29日に教皇グレゴリウス\世:Gregorius \,在位1227〜41年から破門され、その後1229年3月20日に第二の破門を宣告。この記述はこの第二の破門を指す。)
そこで、修道院長であるアーデルハイトは、修道院の人々に向かいこう告げました、 「私たちはもう、この先この街にはおられますまい。 しばらくとどまらせて下さるよう、ケーニヒシュタインの領主様にお願いしてみようと思います。私が戻るまで、≪神よ≫に始まる15の詩編を唱えていて下さい。」
領主様は、この願いをただちに聞き届けられ、ある農場を授けて下さった。そして、彼女らは、この農場に移り住んだのですが、その地において神は、黄金を火中で精錬されるかのごとく彼女らに試練をお与えになりました。 彼女らは骨の折れる重労働に従事し、自分たちの穀物を自ら刈り取り、洗い、パンを焼き、ありとあらゆるはしための仕事をやり遂げなくてはなりませんでした。 彼女らは、限りない信仰心をもってこの仕事を成し遂げ、試練にじっと耐え忍びました。
やがて、聖ローレンツォを讃えて彼女らは、この地に一つの礼拝堂を建設しました。 こうして、そこに移り住んで四年の歳月が流れました。
あるとき、彼女らは、子供が倒れているのを道で見つけました。その子は、ケーニヒシュタインの領主様の孫でウルリヒと言いました。彼女らは、子供を運び入れて死ぬまで看取ってやりました。 この事件のために領主様は、たいそう心を痛められました。領主様には、独り娘のほかに後継ぎがおられなかったからでした。その年の復活祭が済むと、領主様は、院長アーデルハイトに向かってこう言われました、 「シュヴァイナハに来て住まいなさい。そこに礼拝堂と牧草地と森を与えましょう。 あなたがたが、不自由なく暮らせるように。」
領主様は、この献げ物を聖霊とわれらが聖母マリアに恭々しく献上なさったのでした。 同じ頃、7人の修道院長が、シトー会からおいでになりました。そして、この聖なる修道院に対してシトー会に入るよう熱心に勧められ、 「この修道院のために多大な便宜を取り計らいましょう。」 と、申し出られました。 しかし、修道院の創立者であるケーニヒシュタインの領主様は、 「私は、それを許そうとは思いません。この修道院は、これまで通り女性らしい身なりでいてほしいと思うからです。」 と、言われました。 (この返答は、聖霊のお導きでした。女性らしい身なりとは、神のお望みなのです。女性が男性のような格好をしたり、ズボンをはいたりしてはならないのです。女性を創造されたのは神御自身だからです。神は、女性を男性の良き伴侶としてその最も崇高な助け合いのために創造されました。神の御目に麗しい、慎ましい身なりを女性はいつもしていなくてはなりません。外での労働には、ズボンだけではなく、その上にロングスカートを身に着けて、明らかに遠くからでも女性であることが判るようにすべきです。 1224年に聖フランチェスコ:Francesco; Franciscus Assisiensis :1181/82〜1226年が、聖クララ:Clara;1193/94〜1253年に対して与えたクララ会(Ordo Sanctae Clarae ) の規定を念頭に置いているものと思われ、規定には、クララ会の修道女はただ三枚の粗布と外衣のみを着用することになっていたと言う。)
さて、フィルゼックに一人の富裕な司祭がいました。 彼の名は、ウルシャルクと言います。かつて、久しく大罪を犯した罪人として世に知られていた人でした。彼は、この修道院の聖なる生活について耳にすると、 「私を助任司祭にして下さい。そうして下さったら、誠心誠意を尽くして皆さんのために働きましょう。」 と、自分を受け入れてほしく切に願い出ました。 彼は、まことの聖人に生まれ変わったことから歌にも歌われています。 われらが主は、この人にとりわけ臨終に際して偉大なる奇蹟を行われました。それは、彼が死に臨んで40日間というもの食事も水も摂らずにいたのでした。
ウルシャルク神父様は、修道院のために聖堂を建設しました。それは、今なおその場所に建っている通りです。彼は、聖堂内に二つの祭壇を設(しつら)えさせました。 ひとつは、われらが聖母を讃えるために、もうひとつは、今なおそこに残っているように洗礼者聖ヨハネを讃えるためにです。というのも、一人の農夫がこんな夢を見たからでした、 「この場所に一つのパン焼き窯が置かれ、その前に一人の人が立っていました。 その人は、粗い毛織の衣を身にまとい、その窯から国中にパンを分かち与えていました。」 と、言うのでした。
また、福音記者聖ヨハネのためにも彼はもうひとつ祭壇を作らせました。
この第三の祭壇の由来についても皆さんにお話いたしましょう。
シェーンべルクの城に一人の貴族が住んでおられましたが、この人はたいそう重い病をわずらい、その生命を救えると約束する者は誰もいませんでした。 するとある晩、彼の枕辺に聖主が、壮麗な光に包まれてお姿を現されました。 その光は、ほんとうに太陽よりもはるかに明るかったそうです。彼の許へ駆けつけた奥方は、城が火に包まれているのではないかと錯覚するほどでした。奥方が、枕辺に立った時、夫が主に応えて言った言葉を耳にしました。しかし、主の声は聞こえませんでした。
彼女が聞いたのは、 「主よ、喜んでそういたします。」 と、言う夫の言葉だけでした。夫が、われに返った時、奥方は、 「いったい誰と話していらしたのですか。」 と、尋ねました。
そこで、夫はこう語りました、 「聖主ご自身がおいでになられて、 『私の僕(しもべ)聖カタリーナのため、エンゲルタールに祭壇を設(しつら)えなさい。そして、その祭壇をエスペヒの森とトイフェンバハの農場とともに寄進しなさい。 その証しとしてあなたの健康を再び取り戻させ、今この時には死なずにおられるようにするだろう。』 と、仰せになられたのだ。」
さらに彼は、奥方に言われました。 「今、あの修道院の主任司祭になっておられるコンラート・フォン・アイヒシュテット神父様の許へ至急使いを遣(や)っておくれ。このことを彼に知らせたい。」
こうして、その言葉通りに事が運ばれていったのです。 司祭は、彼の許にやって来ました。その貴族は、聖主が彼と語り合われたことを物語り、こう言いました、 「神父様、私の心はこの修道院の方々への愛に溢れています。私には、後継ぎがおりません。ですから、私の持てるすべてを皆さんに差し上げましょう。」 司祭は言いました。 「いいえ、領主様、それはいけません。あなたには貧しい親族もおられます。その方たちもお困りなのですから、聖主が仰せられた通りにご寄進くだされればそれで充分です。」
この貴族は、ことの次第を包み隠そうとはせず、国中に告げ知らせたのでした。 祭壇の奉献式には、大群衆が押し寄せました。 この貴族のお名前は、ブラウン・フォン・ヒンメルドルフと言います。“ニュルンべルクのコラー家”が、その子孫でございます。 修道院の創立者ケーニヒシュタインの領主様は、この後、この修道院をシュヴァイナハの村の名ではなく、エンゲルタールの名で呼ぶよう世に布告し、触れ回られたのでした。
同じ頃、一人の騎士がおりました。ドイツ騎士修道会の一員で名をコンラート・フォン・ラウフェンホルツと言いました。彼は、プロイセンの主馬頭(しゅめのかみ)を務め、聡明な人柄としてドイツ騎士修道会内でも高い栄誉を勝ち得ていました。 彼は、この修道院の神聖さについてまた、偉大な評判について耳にすると心のうちに神へのたとえ様もない愛が、燃え上がるのを覚えて騎士修道会の長上たちに向かってこう言いました、 「私の縁者であるケーニヒシュタインの領主様が、修道院を建てられ、そこには、まことに神聖な方々がおいでだと聞き知りました。 ことに私の叔母(アーデルハイト)が、この修道院に入り、神はこの者に偉大な奇蹟をあらわされました。 このうつし世の栄誉を捨て、夜となく昼となく神を観想して暮らすためにこの修道院をおとずれたいと今ではその願いばかりが、私の心に四六時中湧き上がってまいります。 けれどもこれは、ここにおりましては叶わぬことです。」 こう言って、彼は抑えきれない熱意を込めて懇願した。
人々は、彼を引き留めようとあらゆる手立てを尽くしましたが、無駄でした。 結局、彼はこの聖なる修道院にやって来たのです。司祭も修道院の人々も皆、敬意を込めて彼を迎えました。彼は、 「綜欄の日曜日とその際、民が聖主に捧げた敬意とを今、私は修道院の皆様方によって思い出させてくださいました。」 と、語られたほどこのときの歓迎には、深い栄誉が込められていました。
このように高貴な方が、共同体に来てくれたことを修道院の人々はいたく喜び、彼に参事会を指導していただきたいと望んみましたが、これは彼の意に添うところではありませんでした。 この幸いなる人、ラウフェンホルツの殿は、この上なく聖なる一生を送られました。 彼の振舞いは、深く信仰心に篤く、行状は非の打ちどころなく、神について語る彼の言葉は、まことに甘美でした。 このため学識高い司祭らは、無学なはずの人が、神についてかくも意義深い話を語れることに驚きを禁じえなかったそうです。彼が馬に乗り、君主の城や街へ出かけると、いつも人々は、彼から学んでますます心を悔い改め、それだけますます修道院に深い敬意を払うようになりました。 彼は、実に厳格な生活を送り、全身全霊を挙げて聖主に仕えておられたので、人々の心の灯火(ともしび)となりました。聖主は、彼に大いなる御業をあらわされました。 けれども残念ながら、私はそれを知りません。それは私の生まれる以前の出来事だったからです。
ある日、彼は、ミサ聖祭に出かける途中、醸造所の前を通りかかりました。すると、そこに酒造りのハインリッヒという信徒が立っていました。樽に瀝青(れきせい)を塗りながら彼は、こう言いました、 「管理人さん、私もミサに行きたいんですが、ここでこうして仕事しなくちゃならないんです。」 この時、ラウフェンホルツの殿は、太陽よりも麗しい神の光が、このマイスターを包み込んでいるのを眼にいたしました。ハインリッヒさんは、偉大な聖寵に包まれてそこに立っていたのでした。それが、神への恭順ゆえにもたらされた聖寵であることが、ラウフェンホルツの殿にはよくわかりました。 また、身分ある女性たちが「修道女≪ノンネ≫」と呼ばれていることに彼が心を痛めていると、神の声が彼の許に届き、こう言われました、 「悲しんではならない。修道女たち≪ノンネン≫とは、陽(ひ)の娘ら≪ゾンネン≫のことなのだから。」
こうして、神から授かった恩寵の一切を彼は、叔母のアーデルハイト・フォン・トロハウに語られました。
【 参考文献 】
上智大学中世思想研究所/編訳監修:冨原眞弓
聖なる読書と伝説「薔薇窓」:http://baramado.info/ 著者:Joanne del apocalypse
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