クリスティーネ・エーブナーの『溢れる恩寵についての書』に記された、
修道女デームート・フォン・ニュルンベルクに与えられた恩寵



 デームート・フォン・ニュルンベルクという名前の修道女がおりました。
彼女は、まだ、修道院に入りたての最下級者たちのもとにいて一度も脱魂や恍惚にあずかりませんでした。彼女の全生涯のあいだ、結局、神は彼女に特別な聖寵を授けて下さりはしなかったのです。
 しかし、彼女は、まことに生き方の点でも、修道会に関わるあらゆる事柄においても、また、徹夜・徹宵や断食や沈黙や聖務共唱や祈りの行いにおいても、聖なる信仰心をもった人でした。
 生涯の最期を迎えたとき、彼女は、神に対しどのように振舞うべきかを機会のあるごとに絶えず私たちに説き続けました。

 臨終の前に彼女は、聖主の聖体を熱心に願いました。聖体が施療院に運ばれ、別の修道女に与えられかけたとき、彼女は自制しきれずに大声で叫んでしまいました。
「ああ、それを私にも下さい。」

 死後、彼女は、ある修道女のもとに生前とまったく変わりのない修道女の衣をまとい、光に包まれて再び現れました。恐ろしいところなどひとかけらもないお姿でした。
 このとき彼女は、その修道女にいまわの際に起こった出来事を真実の誓いをもって語り聞かせました。
 デームートは、こう語られました、
 「私は幸せでした。人として生まれたことを神に感謝します。神は、死に際して三つの大きな聖寵を授けて下さいました。」

 「その一つは、こういうことです。
  部屋が燃えるかと錯覚したほど巨大な火そのものとなって、聖霊が私に降りました。
 そこで私は、何人かの修道女たちに向かって、
 (― 彼女はそのシスターたちの名前を挙げました ―)
 こう言いました、
『火を消さないのですか。』」

「第二の聖寵はこうです。
 聖主の聖体を求めるあまり、悲とみに暮れていた折に、聖マルティヌス様が、司教のお姿でおいでになりました。彼は、まことに立派なご衣装を身にまとい、司教としていまわの際の私に聖主の聖体をお授け下さいました。」

「第三の聖寵というのは、私の魂が、私の口元(鼻口)から何ものも介さず、滞りなく、天へ召されたことです。
私の昇りゆく道筋には、聖べネディクトゥスの伝説に記されている通り、燃える灯明が一面に掛かっていました。」

 この話を聞いていたその修道女は、こうしたことについてこれまで一度も耳にしたことがありませんでした。そこで、
 「他の人々にそれを話してもよいですか、それとも黙っていましょうか。」
 と、尋ねました。デームートは言いました、
 「話して下さい。主の栄光が、それゆえ讃えられますように。そのために、私はもう一度ここへやって来たのです。」

 そして、人々が彼女のために徹夜の祈りを唱えていた折に、別のある修道女が、霊視(ヴィジョン)を受けました。
 天界が開かれ、聖主が、聖デームートを示されて御使いたちと聖者たちに向かってこう言われる場面でした、
 「私のことをかくも愛してくれた心をなおひとつ、私が地上に持っていたことを知るがよい。」





【 注 解 】
★「私を見ないで信じる人は、幸いである。(ヨハネ聖福音20:29)」
  参考:ヴィジョンの危険性-カルメル山登攀


トゥールの聖マルティヌス  (約315〜397年頃)
  コンスタンテイヌス大帝の治世にハンガリーのパンノニアに生まれる。幼時期にキリスト教へ改宗。護民官である父の希望に従って軍隊に入り、アミアンに駐屯中、厳冬に震える乞食を見て着用の外套を二分してその半分を与えたところ、同晩キリストが現われ、彼の善行を褒められた。
 改宗後、蛮族のガリア侵入に対して副帝ユリアヌスのもとで、これを迎え撃つとき、敵軍との戦闘を拒んだと非難されたが、
 「十字架を棒げるなら素手でも敵を駆逐する。」
と、答えてこれを実証してみせたと言う。
 のちに修道生活に入り、はじめテュレヌス海(ティレニア海)のある島に、次にポアティエ近くのりギュジェにフランス最初の修道院を建設された。
 370年頃、トウールの司教に指名されたが、修道のため辞退して身を隠しておられた。
しかし、雁(ガン)の鳴き声で発見されて司教職に就くにいたった。
 以来約30年間、同司教として悪魔による数多くの誘惑・攻撃にもかかわらず異教や迷信と闘われた。
 ある日、教会へ行く途中で裸の乞食がついて来るのを見て、自分の下着を脱いで与え、借着してミサの勤行をつとめていると、祭壇に火の球が降下して、彼の燃えるがごとき慈悲を讃え、露わにされた腕に天使が金銀の腕輪を飾られたといわれている。
 また、皇帝との夕食中、彼に回された杯を背後の貧しい司祭に与えて、地上のいかなる地位よりも神の奉仕が高いことを教えたことから、飲酒と宴会の守護聖人となっている。
 ウァレンティニアヌスT世と謁見の時、皇帝が、着座のまま彼に相対すると椅子の下から火が起こって、皇帝は立ち上って敬意を表せざるを得なくなったという。

 中世末の13,14世紀に最も人気があり、その絵画画像もフランスのゴシック大聖堂内で豊富に存在する。彼は、ローマ軍団の兵として徒歩か白馬の騎乗姿、あるいは、司教冠と勺杖を持つ司教姿で表現される。外套を与えた乞食の他に15世紀に主として上バイエルンでは、雁が持物とされる。これは、彼が隠れ家を発見された発端となったためと、渡り鳥の時季が聖日と一致するためと言われている。


★聖ベネディクト「修道院長、西洋修道制度の開祖 約480〜547年頃」
 A.D.480年、イタリア中部、現ウンブリア州ノルチア、メルシャの貴族の家に生れ、ヌルシアのベネディクトと呼ばれていました。五十歳のとき、ナポリの近くにあるモンテ・カシノへ行き異教徒を改心させ、教会を立てた。彼は修士たちの生活に秩序を与え、効果的に完徳へ導くため修道生活の戒律を書いた。彼のしるした戒律は、西欧の修道生活に確固たる形式を与え、これによってヨーロッパ精神史に、深い影響を及ぼした。特に悪魔に対しての祈りによる偉大な取り次ぎ手だとされています。
 黄金伝説から引用しますと、以下のように書かれています。
 「聖べネディクトが、亡くなる年のことです。彼は、修道士たちに自分の逝く日を予言されました。
 さて、その日が近づいて来ると、彼は、その6日前に墓穴を掘るように命じられました。そして、その日から熱病にかかり、日増しに衰弱していかれました。
 6日目に、自分の体を教会に運ぶよう願われ、力づけられるために聖主の聖体と聖血を拝領されました。そのあと、弟子たちの腕に支えられて立ちあがり、衰弱した身体をしっかり直立させ、両手を天にあげ、祈りの言葉を唱えながら息を引きとりました。
 聖ベネディクトが、この世を去られた日、ふたりの修道士が、ひとりは自分の庵室で、もうひとりはそこから遠くはなれたところで、期せずして全く同じ幻視(ヴィジョン)を見られました。ふたりが見た幻視は、豪華な絨毯を敷きつめ、無数の灯明に飾られた光の道が、聖ベネディクトの庵室から天にむかって通じていました。
 その道に明るく澄んだ顔をされた気品のある年老いた人があらわれて、彼らにこう言われました、
 『あなたがたが見ている道は、いったい誰の道であるか知っていますか。』
 彼らが、
 『知りません。』
 と、答えますと、老人はこう言われました、
 『これは、神の選ばれた友である聖べネディクトが、天に昇っていかれる道なのです。』

 彼のご遺体は、彼自身が建てた洗者聖ヨハネ教会に葬られました。そこは、かつて偽神アポロンの祭壇が、立っていた場所でした。彼が生きて活躍していたのは、主の紀元518年頃、東ローマ皇帝ユスティヌスT世(在位518〜527)の時代だったとされる。」



【 参考文献 】


上智大学中世思想研究所/編訳監修:冨原眞弓


Jacobus de Voragine [ Legenda aurea ]/ヤコブス・デ・ヴォラギネ「黄金伝説」
訳 者 前田敬作・西井 武/発行所 株式会社人文書院




聖なる読書と伝説「薔薇窓」:http://baramado.info/ 著者:Joanne del apocalypse







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