《ドン・ボスコ社発行/十字架の聖ヨハネ著 「カルメル山登攀」(奥村一郎氏訳)》
より意訳し、言葉の重複をさけ、必要と思われる箇所のみを適宜抽出し、わかり易くまとめた文章であることをご了承下さい。 |
―第一コリント13:11―
ワラベ カタ
『童のときは、 語ることも童のごとく、思うことも童の ごとく、論ずることも童のごとくなりしが、成人とな りては、童のことを棄てたり。
今、我ら、鏡持て見るごとく、見るところ、おぼろなり。』
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「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。
成人した今、幼子のことを棄てた。
わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。」
“わたしが幼児であったときには、話すことも幼稚で、考えることも同じく幼稚であった。しかし、大人となっては、その幼稚さを棄ててしまった。”
『感覚的なことがらや、そこから霊がひきだすことのできる認識などの幼稚なものに執着をもち、それらを捨てようと思わないならば、われわれは決して霊における幼児的段階からぬけでられないであろうし、常に、神について語ることも幼稚で、神を知ることも、神について考えることも幼稚なのである。』
(1)預言は、天気「予報」ではなく、親が子供を思う気持ちから出た言葉、子供の至ら無さを戒める「忠告」です。
『あなたたちが試練を受けるのは懲らしめのためであって、神はあなたたちをこのように扱われる。父から懲らしめられない子があろうか。誰にでも与えられる懲らしめを受けなかったら、あなたたちは“私生児”であって、真実の子ではない。』
―聖パウロ・へブライ12:7〜8―
(2)神からのヴイジョン(示現・幻視)や言葉(預言・啓示)は、原因が変われば、『たとい神が、本人、または他の人によって、良いことにせよ悪いことにせよ、ある人に何かはっきり言いまたは啓示されたとしても、その人の心の持ちかた、あるいは、その土台となっている事柄が、いろいろ変わることによって、それは大きくまたは小さく変わったり、または全くなくなったりし得るもので、人々の思うようにそれが実現するわけではない。』
―十字架の聖ヨハネ カルメル山登攀P199―
(3)「聖母の預言」とは、聖母が世界中で出現し、人類に伝えようとしている内容の一つの手段です。本来、すでに聖書に書かれている預言であり、その内容を明らかにすると共に、祈りによって、回避する事にあります。
『・・・私の言葉に含まれている預言に留まってはなりません。その預言は、あなたたちが現在生きている、この時代を理解させようとする、一つの努力に過ぎないのです。
私が、母としての立場から、あなたたちがさらされている危険、迫っている脅威、起きようとしている悪について話すのは、ほかでもありません。それらの悪が、まだ免れ得るもの、その危険から逃れられるもの、そして、神のご計画が、そのあわれみ深い愛の力で、いつでも変更可能なものだからです。
私が、天罰を前もって知らせるときにも、それらはすべて、あなたたちの祈りと、償いを捧げるその改心の力によって、一瞬のうちに変え得るものであることを思い出しなさい。』
―1984.1.21 Fr.ステファノ・ゴッビへのローキューション (司祭のマリア運動創設者)[マリアから司祭へ]―
※ローキューション:内的語りかけ。
プロテスタントでは、「レーマ(rhema)」と言われている。
(4)預言に留まってならない理由とは何か。
「知覚、想像に映ずるヴィジョン、何かの形やイメ―ジ、個々の知的形態をとって示されるものであるならば、それが悪魔に由来する偽りのものであるにせよ、あるいは神からくる真実のものであることがわかるにせよ、理性がそれにこだわって、そこに糧を求めたり、心を留めたりしてはならない」
『それらのことについて知性を照らし、役に立つ良いものだからといってそのヴィジョンにこだわって、神的英知との一致が妨げられたり、あるいは、偽りのヴィジョンによって欺かれたりしないようにすることにある。
神との一致のためには、霊魂はそうしたものから離れて、赤裸になり、そうした形のものは何もないまでに、清く洗われた者にならなくてはならない(頭の中を何も考えず空っぽにすることではない)なぜなら、理性が一致すべき神の英知には、何らの形態というものがなく全く純粋無垢であるため、限られた枠や個々の形をとる認識の中に入ってこないからである。』
【参考】
・第二法4:12
「あなたたちはその言葉の声を聞いたけれども、その形は全く見ることがなかった」
・民数の書12:6〜8
「私のしもべモーゼには、他の預言者のようには語らない。私の家の最も忠実な者と定め、私はかれに顔と顔を合わせ、口より口にはっきりとなぞぬきで語る。かれは喩えとかそれに類似したものや、形をかりて神を見るということもない。彼は、主の姿を見ている。」
(5)神の愛の本質的な一致に達するためには、ヴィジョンやイメージ、個々の安直な理解や啓示などを頼りにしてはいけない。
「ガラス窓に入る光の妨げとなるのが、汚れであるのと同じく、心の不純と不完全は、精神が神との真の交わりを、自由にもつことの妨げとなる」
『霊魂も、ガラス窓がそこに差し込む太陽光線を妨げることが出来ずただ全く受け取るというのに似て、いくら拒もうと思っても、それらのイメ―ジの力や働きかけを受け入れないでおこうとしても出来ず、どんなに抵抗してみても無駄である。なぜなら、謙遜な愛をもって何もかも棄ててかかる意志であるならば、この超自然的な光が注がれるのを防ぐことは出来ないからである。』
『霊的なものは感覚にとらえられるような形をとるものではなく、われわれを信仰における神との一致に導くもので、この信仰こそ、ふさわしい手段なのである。したがって、向上するためには、そうしたものを常に退けなくてはならない。』
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