「ビジョンの危険性」−カルメル山登攀十字架の聖ヨハネ−


十字架の聖ヨハネ著「カルメル山登攀」の完徳の山の図
《ドン・ボスコ社発行/十字架の聖ヨハネ著
「カルメル山登攀」(奥村一郎氏訳)》

 より意訳し、言葉の重複をさけ、必要と思われる箇所のみを適宜抽出し、わかり易くまとめた文章であることをご了承下さい。
 
―第一コリント13:11―

 ワラベ   カタ
『童のときは、 語ることも童のごとく、思うことも童の ごとく、論ずることも童のごとくなりしが、成人とな りては、童のことを棄てたり。
 今、我ら、鏡持て見るごとく、見るところ、おぼろなり。』


「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。
成人した今、幼子のことを棄てた。
わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。」
“わたしが幼児であったときには、話すことも幼稚で、考えることも同じく幼稚であった。しかし、大人となっては、その幼稚さを棄ててしまった。”

『感覚的なことがらや、そこから霊がひきだすことのできる認識などの幼稚なものに執着をもち、それらを捨てようと思わないならば、われわれは決して霊における幼児的段階からぬけでられないであろうし、常に、神について語ることも幼稚で、神を知ることも、神について考えることも幼稚なのである。』


(1)預言は、天気「予報」ではなく、親が子供を思う気持ちから出た言葉、子供の至ら無さを戒める「忠告」です。

『あなたたちが試練を受けるのは懲らしめのためであって、神はあなたたちをこのように扱われる。父から懲らしめられない子があろうか。誰にでも与えられる懲らしめを受けなかったら、あなたたちは“私生児”であって、真実の子ではない。』
―聖パウロ・へブライ12:7〜8―

(2)神からのヴイジョン(示現・幻視)や言葉(預言・啓示)は、原因が変われば、『たとい神が、本人、または他の人によって、良いことにせよ悪いことにせよ、ある人に何かはっきり言いまたは啓示されたとしても、その人の心の持ちかた、あるいは、その土台となっている事柄が、いろいろ変わることによって、それは大きくまたは小さく変わったり、または全くなくなったりし得るもので、人々の思うようにそれが実現するわけではない。』
―十字架の聖ヨハネ カルメル山登攀P199―


(3)「聖母の預言」とは、聖母が世界中で出現し、人類に伝えようとしている内容の一つの手段です。本来、すでに聖書に書かれている預言であり、その内容を明らかにすると共に、祈りによって、回避する事にあります。

『・・・私の言葉に含まれている預言に留まってはなりません。その預言は、あなたたちが現在生きている、この時代を理解させようとする、一つの努力に過ぎないのです。
私が、母としての立場から、あなたたちがさらされている危険、迫っている脅威、起きようとしている悪について話すのは、ほかでもありません。それらの悪が、まだ免れ得るもの、その危険から逃れられるもの、そして、神のご計画が、そのあわれみ深い愛の力で、いつでも変更可能なものだからです。
私が、天罰を前もって知らせるときにも、それらはすべて、あなたたちの祈りと、償いを捧げるその改心の力によって、一瞬のうちに変え得るものであることを思い出しなさい。』
―1984.1.21 Fr.ステファノ・ゴッビへのローキューション
(司祭のマリア運動創設者)[マリアから司祭へ]―

※ローキューション:内的語りかけ。
 プロテスタントでは、「レーマ(rhema)」と言われている。


(4)預言に留まってならない理由とは何か。

「知覚、想像に映ずるヴィジョン、何かの形やイメ―ジ、個々の知的形態をとって示されるものであるならば、それが悪魔に由来する偽りのものであるにせよ、あるいは神からくる真実のものであることがわかるにせよ、理性がそれにこだわって、そこに糧を求めたり、心を留めたりしてはならない」

『それらのことについて知性を照らし、役に立つ良いものだからといってそのヴィジョンにこだわって、神的英知との一致が妨げられたり、あるいは、偽りのヴィジョンによって欺かれたりしないようにすることにある。
神との一致のためには、霊魂はそうしたものから離れて、赤裸になり、そうした形のものは何もないまでに、清く洗われた者にならなくてはならない(頭の中を何も考えず空っぽにすることではない)なぜなら、理性が一致すべき神の英知には、何らの形態というものがなく全く純粋無垢であるため、限られた枠や個々の形をとる認識の中に入ってこないからである。』

【参考】
・第二法4:12
「あなたたちはその言葉の声を聞いたけれども、その形は全く見ることがなかった」

・民数の書12:6〜8
「私のしもべモーゼには、他の預言者のようには語らない。私の家の最も忠実な者と定め、私はかれに顔と顔を合わせ、口より口にはっきりとなぞぬきで語る。かれは喩えとかそれに類似したものや、形をかりて神を見るということもない。彼は、主の姿を見ている。」


(5)神の愛の本質的な一致に達するためには、ヴィジョンやイメージ、個々の安直な理解や啓示などを頼りにしてはいけない。

「ガラス窓に入る光の妨げとなるのが、汚れであるのと同じく、心の不純と不完全は、精神が神との真の交わりを、自由にもつことの妨げとなる」

『霊魂も、ガラス窓がそこに差し込む太陽光線を妨げることが出来ずただ全く受け取るというのに似て、いくら拒もうと思っても、それらのイメ―ジの力や働きかけを受け入れないでおこうとしても出来ず、どんなに抵抗してみても無駄である。なぜなら、謙遜な愛をもって何もかも棄ててかかる意志であるならば、この超自然的な光が注がれるのを防ぐことは出来ないからである。』

『霊的なものは感覚にとらえられるような形をとるものではなく、われわれを信仰における神との一致に導くもので、この信仰こそ、ふさわしい手段なのである。したがって、向上するためには、そうしたものを常に退けなくてはならない。』
(6)神が超自然的ヴィジョンをお与えになるというのが真実であるならば、一体何のために神は与えたもうのであろうか。

「神は霊的に本質的なものだけをお与えになれるのに、なぜわざわざそのような感覚を通し、ヴィジョンや、感覚的イメージによってそうしたものをお与えになるのであろうか?」

《3つの基本がある》

@ローマ人に与えた聖パウロの言葉
「あるものはすべて、神により定められている」

A知恵の書(8:1)
「すべてのものを、無理なく、美しくととのえたもう」

B聖トマスの『真理について』第12問、第6項
「神はすべてのものを、その各々のあり方に従って動かしたもう」

『神が霊魂を動かし、これをいちばん低いところから、ご自分との神的一致という、いちばん高いところにまでお上げになるには、それを順序正しく、かつ妙に、また、それ自身のあり方に従ってなしたもうということである。』

『理解や認識の足場の感覚といういちばん低いところから、人間の霊魂のあり方に応じて神は、感覚によってとらえることのできない、正反対の極地にあるその神の英知にまで我々の霊魂を高めたもうためなのである。』

『通常自然の行為は、多くの過程的予備的行為がたくみに秩序正しく組み立てられてゆくわけで、いちばん低い外面的なところから、いちばん高い内面的なところまで、人間を徐々に完成されるのである。』

『感覚がしっかりしたものになり、一層それを完全なものにするために、善に身を固めさせるべく、何か超自然的な報いや恵み、ある種の超自然的な交わりを与えられるのが常である。』

【参考】

“霊は非常な進歩をなし、少しずつ徐々に自分を改めてゆく”
“霊の味わいは、肉のものをすべて味気なくする。”
 ―聖パウ口の言葉・コリント前13:11―

『感覚にふれる外的なものにしがみつくものは子供であり、全き成人とも言える霊の実質に達することはないからである。たとえ神が差し出してくださったものであるにしても、自分の成長のためには、それらの啓示を、おいそれと受け入れようとしてはならない。』


(7)たとえ神からのものであろうと意志とは無関係に感覚に入り込んでくる想像のヴィジョンや、その他の超自然的知覚を受け取ってはならない理由。

《2つの理由》
@われわれの側から、ヴィジョンを妨げたりすることができたとしても、神は、それにもかかわらず、そこから実りを取り出すことがおできになるのであって、それを妨げることは、我々の力の及ばないことだからである。

『神が与えたいと思われた宝は、何かの不完全や所有欲によらないかぎり、それを妨げることはできないからである。したがって、こうしたヴィジョンを謙遜に、恐れをもって退けることには、不完全とか所有欲とかいうことはない。』

A良いものと悪いものとの識別、あるいは、それが光の天使か闇の天使かを見分けるための危険と骨折りから免れるためである。

『このようなことの中には、決して利益はなくただ時間を空費し、心をがんじがらめにし、はなはだしい不完全や停滞に身をさらすだけのことで、ことこまかな知覚や、個々のものの認識から心を解放して、大切なことに目をむけさせることにはならない。』

【参考】
・ダヴィドの言葉・詩篇147:17「(神は)切れぎれのパンのように、氷を投げ送る」

『神は、その英知を一口ずつ送られた。つまり、一口ずつ霊魂にその糧をあたえるのである。』

・聖パウ口の言葉・Tコリント人への手紙3:1〜2「私は、あなたたちに、霊の人に向かってするようにではなく、肉体の人すなわちキリストにおける子供に向かってするようにしか話せなかった。私はあなたたちに固い食べ物を与えないで乳を飲ませた。あなたたちはそれに耐えられなかったからである。だが今もまだできない。
(妬みと争いがいまだにあるから)」

・聖ぺト口の言葉・Uぺト口1:19「更になおかたい預言の言葉を私たちはもっている。あなたがたはこれをもって暗いところを照らす灯とし、夜が明けて陽の出るまで、よくこれに思いをひそめよ。」

“キリストについての証しとして、われわれはタボル山のヴィジョンよりもさらに確かな保証である預言者の語ったことばを持っている。ちょうど暗闇の場を照らす灯のようにそこに目をそそぐがよい”

『聖ぺト口は御変容のキリストにおいて栄光のヴィジョンをみたことがあれほど確実なことでありながら、その事実に人々がおもな確証を求めることのないように、信仰において歩むように記している。』

『神が特に与えたいと望んでおられるもののおもな目的は、敬虔な信仰心だけが引き出されることにある。』


(8)たとえヴィジョンが神からのものだとしても、それを、すぐに軽々しく信じこむことから生じ得る弊害について。

主の言葉・マテオ15:15「盲人が盲人を導けば、二人とも穴に落ちこむ。」

『ヴィジョンが何か価値あるものと考え、何か良いものを自分はもっているため、神は私を重んじていて下さると気をよくし、およそ謙遜とは反対の自己満足に陥るため、少なくとももう人は謙遜ではなくなってしまう。悪魔は、気づかれないように、そういう気持ちをひそかに増し、次に他人はそうしたものをもっているかどうか、そのような状態にあるかどうかという気がかりを取り出させ始める。これらは、聖なる単純さ精神の孤独に反するものである。』


(9)(2)の[啓示や神の言葉は、人間が理解した通りに、その言葉の響きのままになるとはかぎらない]という例題。

・創世の書15:7「お前に、この地を与えよう」
・創世の書15:8「主よ、わたしが、それを持つようになることを、どうして知ることができますか」

『神は、アブラハムをカナンの地にお導きになられて後、何度もいわれたのに、アブラハムが非常に年老いてしまってもなお、土地は決して与えられなかった。神は、持つのは彼自身ではなく、400年後に彼の子孫が所有することを示された。(15:13)』

・判事の書20:18「ユダが先頭に立つ」
     20:20「討ちに行け」
     20:28「攻めに出よ、明日おまえ達の手に渡す」

『べニヤミン族の間でおかした悪を罰するため、イスラエル族が集合し戦いをしたことについて、神は戦えと言われただけで、彼らが勝利を得るとは言われなかった。神は、この敗北によって、彼らのうちにある怠惰と傲慢を罰し、へりくだらせようとお望みだったのである。』

・聖パウロ Uコリント3:6「文字は殺し、霊は生かす」

『文字や言葉や形やヴィジョンなどの、目に映るものにこだわっている人は、多くの誤りを免れることができず、感覚を頼りにして導かれ、それを全くぬぐい捨てて、霊に場所を与えなかったため、後になって自分の見方が、いかに近視眼的で混乱していたかに気づくのである。』

・イザヤ28:9「だれに教えようとするのか。だれに示しを説明しようとするのか。乳離れしたばかりの乳飲み子にか。」

『イスラエルの多くの子らは、預言者の預言を、ひどく字句にこだわって解釈した結果、かれらの期待したようには成就しなかったのをみて、それを軽視し、信じなくなってしまった。こうして、預言者を侮辱することになった。イザヤは、「だれに預言の知識を教えたもうのか?文字の乳、感覚の乳房よりすでに離れた者をよそにして、その教えをだれに悟らせたもうのか?」と言ったのである。』

・使徒13:37「エルサレムに住んでいた人々、および、そのおもだった人々は、彼がだれであるかを知らず、安息日ごとに朗読される預言のことばも解しないままに、彼を裁いて、それとは知らずその預言を果たしていたのである」

・ルカ24:21「かれこそ、イスラエルを救うものだと我々は期待していた」

『キリストと共にいた弟子たちまで思いちがいをして、この世の
救い、地上の主権者のことと解していたのである。』

・ヨハネ11:50「全国民が亡びないために、一人の人間が死ぬのはよいことである。」

『カヤファは、それを自分から言ったのではないが、自分なりにそれを解釈したのであって、聖霊の言い給うとしたことは、別のことであった。』

『言葉や啓示が神からのものであっても、それによって安心していることはできない。その解釈の仕方や方法において、まことにたやすく、しかもひどい誤りに陥ることがあり得る。そのため、霊的指導者は、その弟子が超自然的なことがらの知覚を重大視しすぎて、彼の霊を小さくしてしまうことのないように努めなくてはならない。霊的指導者は、あらゆるヴィジョンやことばから遠ざかって、精神の自由と信仰の暗黒の中に留まることを学びとるように教えなくてはならない。』

・ヨナ3:4「今から40日のうちに、ニネべは破壊されるであろう」『神に対し人々が背いたというような不敬がなくなるか、または変わるならば、処罰もなくなるであろうが、脅威が真実であったことに変わりはない。』

【参考】
・ヨハネ12:16「弟子達はその時はこれらのことがわからなかった。しかし、イエズスが光栄を受けられたのちに、弟子らは、それらのことがイエズスについて記されていたことであり、人々はそういうふうにイエズスに対して行ったのだと思い出した。」

『神は天上にあり、永遠の道に則って話したもうのに対し、われわれは地上の盲人で、肉体と時間によって見る他はない。』





(10)神は、なんのためにそうしたものをお与えになるのであろうか?

『それを話したもうた神のお望みのままに、その時になれば分かることであり、神の望みたもう者には分かることで、やはりそうあるべきだったということが後になって明らかになるのである。』

【参考】
エレミア20:7「主が私に誘いをかけられたので、私はそれにのりました。」

哀歌3:47「恐れと穴が、惨めさと滅びとともに、私たちの分け前となった。」

ヨナ4:2「主よ、私は、自分の地にいたとき、こうなるだろうと思っていました。それだから、初めはタルシスに逃げようとしたのです。私は、あなたが愛に富み、憐れみに富み、怒るに遅く、慈しみに満ち、災いを下すときには情にもろいお方だと知っていたからです。」

『神のことのために、預言者たちは欺瞞者とみられ、そのために非常に苦しまなければならなかった。』


(11)神は、超自然的に懇願されたことに、時にお答えになることはあるにしても、それをよろこびたもうのではなく、 答えながらも、かえって、憤りを感じておられるのということについて。

・イザヤ7:12「わたしは願わない、主を試みることはしない。」

『すべて不正なことは、神の憤りをかうからである。』

『神を試みることは、異常な道、超自然の道によって神と交わることであることをアカブ(アハブ)王はよく知っていた。』

【参考】
民数の書22:32「なぜ、雌ロバを三度も打ちたたいたのか。私は、おまえを止めるためにきた。おまえの旅は私の気に入らぬからだ。」

『自然を超えた異常な道で、何かを知りたいと望むことは、感覚の中に霊的な楽しみを求めることよりも悪いことである。少なくとも小罪を犯すことで、そうすることをすすめる者も同様である。』

『超自然的に何かのことがわれわれに告げられたとしても、そこから理性と福音の掟にかなっているものだけを受け入れ、心の糧とするようにしなくてはならない。』

『困っているとき、労苦しているとき、神は、お望みの方法で我々のために計らって下さるに違いないという希望と祈り以外に優れた、かつ安全な方法はないということになる。』

・何のために神はそのような望みに時々答えたもうのか?
・時々は悪魔が答える。
・神が答える場合には、その道をゆくことを望む霊魂の弱さのため。
・神がその霊魂に背を向けておられると考えて余りに心を痛めないため。
・人間の弱さを考慮して、神のみ知りたもう他の目的のために、これに答えてやるのがよいと思し召しになる場合。

『悪魔は、神が伝えたもうことがらと酷似したことを示すことによって、神の装いをして人間につき従い、それとは気づかれないように、しばしば入りこんでくるのである。』

・イザヤ19:14「主はかれらの心に、目まいを生じさせたもうた」

『将来のことを超自然の道によって知ろうとする人々について言っている。』

・列王の書上22:1〜38「アカブをそそのかし預言者たちの口に偽りの霊をおかれた」

『かれらは、恩寵や恵みを遠ざけられ、神から離れる。すると悪魔が近づいてきて、人間の好みと欲望に、こびて答えるため、いい気になり、その答えや交わりが自分の意志に添うものであるために、どうしてもひどく欺かれることになる。』
(12)恩寵の掟を与えられている今においては、旧約時代のように、超自然の道によって神に間いかけることは、なぜゆるされていないのか?

・旧約時代には超自然的な道で神との交わりがあり、正当であり、神がお命じになった。
・イザヤ30:2「わたしの口にあなたたちは問わなかった」
・ヨシュア9:14「イスラエルの重立った人々は、主にうかがいを立てずに彼らの食料を受け取った。」

『旧約の時代において、神に尋ねることが許されており、預言者や司祭も、神からの啓示やヴィジョンを求めることが、それなりによいことであったのは、当時はまだ信仰がそれほどしっかり根をおろしておらず、福音の掟がなかったため、神に尋ねる必要があり、神もそれらに類したもの、しるしなどによって語ることをよしとされた。』

・聖パウロの言葉・へブライ人1:2「昔、神は、預言者によって、何度もいろいろの形でわれわれの祖父たちに語られたのであるが最後に、今この日になって、おん子によりすべてを一度にわれわれに語られた」

『今日になってもなお、神に何かを尋ねたり、あるいは何かのヴィジョンや啓示を望むような人は、愚かなことをするだけではなく、神を傷つけることになる。…キリストの上に目を注ぐならば、かれが神の言葉と答えのすべてであり、ヴィジョンや啓示のすべてであるから、請い求める以上のすべてを彼のうちに見出すであろう。』

【参考】
マテオ17:5「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け。」
コロサイ2:3「知恵と知識のすべての宝はキリストに隠されている。」

・旧約の時代であってもだれでもが神に尋ねてよいというわけではなかった。

『神はすべてに答えられたのではなく、司祭や預言者にだけ答えられたのである』。

【参考】
列王の書上22:7〜9「主のみ旨を聞くのに、ここにいる預言者のほかには、だれ一人主の預言者はいないのか…イムラの子ミカヤをすぐ呼び出せ」


(13)直接本人に超自然的に告げられることが、第三者の口という人間的な管を通すまでは、それに全き信用をおかないようにまた、確信を持たないようにと、神がお望みになる理由。

『神は、人間の支配や行為が他の人によって定められ、また人間が通常の理性によって支配され統御されることを非常に好むからである。』

・判事の書7:11「敵の話していることを聞き,勇気をつけて,敵陣を攻めよ。」

『ギデオンが神のお告げについて確信が持てず、臆していたのは、神から言われていたことを人の口から聞くまでは、神がかれを無気力のままにすておいたからであった。』

・出エジプト4:14〜15「おまえの兄の、あのレビ人のアロンがいるではないか。…私は、おまえの口とともにあり、彼の口とともにいて、どう話すべきかを、おまえたちに教えよう。」

『神と自分だけで交わりをもとうとするような冒険をせず、人間の指導や意見なしにには満たされないというのは、謙遜な者の持ち前だからである。』

・マテオ18:20「私の名によって、二人、三人の集まるところには私もまたそこにいる」

・聖パウロ・Tコリント14:27〜32「…預言者は、二人か三人が話し、他の人はそれを判断せよ…」

『かれらの心の中に神の真理を明らかにし、これを確証することによって、という意味で少なくとも二人いなくてはならない。』

・伝道の書4:9〜12「独りより、二人でいるほうがよい。・・・独りの場合は倒されても、二人でなら抵抗できる・・・」

『一人だけならば、神に関してどんなに冷たいままでいなくてはならないであろうか。また、二人なら真理を知り真理を保つために力を合わせて悪魔に対抗するであろう。』

・ガラツィア2:2「私が(エルサレムに)上ったのは啓示を受けたからであった。」

『人から保証を与えられるまでは安心することができなかった。』

『啓示が神からのものであるとしても、人間はその啓示およびそれに関することについて誤り得る。また、それをなすべき方法について話されないことがしばしばある。』

・出エジプト18:21〜22「民の中から、神を恐れ、また能力があり、不正なもうけをしない、誠実な人を選び出して、彼らを民のかしらと立てるがよい。・・・」

『モーゼに有益な勧めを与えたのは、舅エトロであって決して神ではなかった。』

・ガラツィア2:14「私は彼らが福音の真理に正しく従って歩んでいないのを見て、みなの前でケファに言った・・・」

『神は、できるだけ人間の理性的判断によって、コントロールされることをお望みなのである。但し、信仰に関することは別で人間的理性や判断に反するものではないが、そうしたものを超えているからである。』

・マテオ7:22〜23「天にまします聖父の御旨を果たした人が入る」

『神は、彼らに自然の掟と理性を与えられたというだけで、すでに忠告していると言えるので、欠点や怠慢を主はとがめるであろう。』


(14)超自然的道によって何かを受け取ることがあるならば、直ちに、はっきりと率直に、全部つつみかくさず霊的指導者に告げることの理由。

《3つの理由》
・神の定めた霊的診断をしてくれる人(そうしたことを否認または是認することによって解決を与えてくれる人)に話すまでは確かなものとしてくださらないからである。

『謙遜な人々にこのようなことがあったとき、良い霊的指導者に告げて後、新しい心の満足と力と光と安心感とを与えられる。指導者に告げるまでは、何か落ち着かず、自分のものとは思われず、告げたときになってはじめて、自分に与えられたような気がするものである。』

・人は、霊的赤裸と貧しさという暗夜への道を通して導かれるため、自分に生ずることがらについての教えを必要とする。

『たとえ超自然的なことがらを望まないとしても、知らず知らずに、霊的な道において心がかたくなになり、そうした目にみえてはっきりととらえられることにひかれて、次第に感覚的になってしまうからである。』

・我々の謙遜と服従と、抑制のために、すべてについてはっきり告げるのがよいからである。

『相談したいと思う人が、それをどのように受け取るかわからないと思うと、告げるのをひどくおっくうに感じられる。しかし、これは、謙遜が足りないからで、素直にそれを言わなくてはならない。また、他の人たちは、自分が聖人に思われるようなことがあるのをいとい、あるいは別の理由から告げるのを非常に恥ずかしがり、自分自身問題にしないため言うまでもないと思うのである。しかし、自分を抑えてそれを言うだけの謙遜で単純、柔和な心をもって、すぐに打ちあけるようにするならば、後にはそれがずっとたやすくなるであろう。』


◇ 注 意 ◇

『霊的指導者(聴罪司祭)は、超自然的ことがらに関して余り不快な態度を示したり、そうした人々を避けたりさげすんだりする事はかんばしからぬことで、そのために人々は、勇気がくじけて打ちあけなくなり、さまざまな好ましからぬことが生ずることになる。むしろ、天から受け取る何かのヴィジョンや交わりよりも、愛によるひとつの決意や行いの方がはるかに価値あるものであることを悟らせて、彼らを信仰の方に導かなくてはならない。』


【参考】
『通常、神からの啓示に関しての一般的な確認の方法』
―その3原則―

@第一に、聖書の御言葉が与えられること。
 理想は、二つ以上の聖句が与えられ、暗記できる(心に御言葉が刻印される)こと。 聖句は相互に補い合う内容であること。

A霊的指導者、尊敬できる先輩・親友、預言者・神の人などに同じ助言や勧め、同じ聖書の御言葉をいただくこと。

B周りの環境が、与えられた啓示や御言葉と一致するように方向づけられ整えられること。


≪特 記 事 項≫
『上記のような体験を持たない多くの人々の方が、実際そうしたことをしばしば経験した人々よりも、はるかに多くの進歩を遂げている。

 「見ずして信ずる者は幸いである」(ヨハネ20:29)。

超自然的なことをことさらに好む者は、信仰について失うところが多いのである。』


参考文献
《ドン・ボスコ社発行/十字架の聖ヨハネ著
カルメル山登攀」(奥村一郎氏訳)》
バルバロ訳聖書(講談社)
聖なる読書と伝説「薔薇窓」:http://baramado.info/ 著者:Joanne del apocalypse








戻る
冒頭へ↑


訳本をお探しのあなた!楽天ショップには、楽天ブックスもありますよ!