神秘家でありヴィジョナリーでもあった聖寵(恵み)に満ちたクリスティーネ・エーブナー(Christine Ebner 1277〜1356年)の『溢れる恩寵についての書』 (Büchlein von der genaden uberlast)は、14世紀の羊皮紙写本が唯一現存するのみで、もとはニュルンべルク近郊にある聖ドミニコ会のエンゲルタール(Engelthal)修道院に所蔵されていたが、修道院が1565年に廃止されて後、何人かの所有者を経由し、ニュルンべルクのゲルマン博物館に収められた。 写本自体の標題には、「神がエンゲルタールの修道女になされた数多くの聖寵について」(von der menig der genaden gotes die er mit den frawen ze Engeltal getan hat) とあった。 写本には、本文とは別人の筆跡で、次のような追記が付されてある。
≪至福なるクリスティーネ・エーブナー(クリスタイン・エーブネリン)の生涯≫ 「神は彼女に言われた。 『私はあなたのために扉を開く。大いなる幸いと歓びをもって、そこより入れ。』 聖ラウレンティウスの祝日(8月10日)に、彼女はわれらが主のご聖体を拝領した。このとき神は言われた。 『私はあなたのために幸いの扉を開く。あなたは大いなる歓びをもってそこよりはいるだろう。あなたの病はあなたにさらに大きな喜びをもたらすだろう。』 こうして、彼女は、われらが主が、彼女の修道院の姉妹らに行われた聖寵について、ささやかな一冊の書を著した・・・・・。」
ニュルンべルクの都市貴族エーブナー家の娘、幼い頃から祈りや信仰に強い関心を示した。両親も、彼女の師であったドイツ騎士修道会司祭ハインリヒ・フォン・ローテンブルク(Heinrich von Rotenburg)も彼女の資質を喜び、1289年に11歳の彼女をエンゲルタール修道院に入れた。 彼女は、実に個性的人柄の持ち主だったため、修練中は、修道院生活に反発を覚えていたらしく、しかし、その優れた素質によって、修道院のさまざまな要職を務め、1345年には、修道院長として聖務を統率するに至った。 ニュルンべルクの聖ゼーバルト教会にクリスティーネ・エーブナーの墓碑が残されており、1277年生誕、1356年12月27日帰天と刻まれている。
エーブナーは、マイスター・エックハルト(Meister Eckhart 1260頃〜1328年)の流れを汲む神秘家集団「神の友」(gottesfreunde)の中心的人物であったハインリヒ・フォン・ネルトリンゲン(Heinrich von Nértlingen 1356年以降没)と交友があった。彼は、ドミニコ会のマリア・メディンゲン(Maria Medingen)修道院にいた、神秘的著述家マルガレータ・エーブナー(Marareta Ebner 1291頃〜1351年)の古くからの友人でもあった。またおそらく、同時代の偉大な神秘思想家ヨハネス・タウラー(Johannes Tauler 1300頃〜61年)の思想を彼によって聞き及んだとされる。 40歳(1317年)の頃から、クリスティーネは、内なる声の命ずるところに従い、彼女の聴罪司祭であったドミニコ会士コンラート・フォン・フュッセン(Konrad von Füssen 14世紀前半)に、自分の神秘的幻視体験を報告している。この時期、つまり1317年〜24年に、一部は彼女自身によって、一部はコンラートの手で書き留められた、『祈りと幻視の生活に関する報告の書(Leben und Offenbanungen)』が生まれた。これは、晩年、1344年〜52年にかけて、同僚たちが編集した彼女の幻視の書とともに、数多くの写本に残されている。 『溢れる恩寵についての書』 は、彼女自身の恩寵生活に関する二篇の書の中間時期にあたり、おそらく修道院長上たちの依頼によって起草された。 ここには彼女自身の体験は記されていない。
この写本は、1240年〜1340年に至るほぼ一世紀間の、エンゲルタール修道院における祈りと法悦(恍惚:トランス状態,脱塊)と幻視(ヴィジョン)の生活記録と言われます。 まず、べギン共同体から発足したこの修道院の前史と成立における記録。 エンゲルタール修道院は、1240年に創立され、1244年にドミニコ会修道院となりました。 次いで多くの修道女たちと数名の助修士や助任司祭たちの個人的な伝記と幻視体験。 超感覚的世界(異次元:天界とか霊界と言われている世界)から汲み取られ、現実世界に伝えられた諸啓示の精華が、この写本となり、神秘思想の書に分類されます。 この写本は、マクデブルクのメヒティルト(Mecthild von Magdeburg ; Mechtildis Magdeburgensis 1207頃〜82年頃)の啓示の書と好対照を成し、体系的な神学思想の論究や記述はほとんどありません。理性的思弁はなく、感性と幻視のみが語られます。 メヒティルトにも言えますが、ここでは、より具象的状況に裏打ちされ、人間味を身近に現わしています。 ただし、歴史記述における事実の裏付け的意味合いは、全くありません。詳細な場所や日付の記録、出来事の一貫した連続性、全体の秩序立った明確な構成は、ほとんど見られません。 外的生活や修道院の日常的な事柄は、付属物ようにわずかに言及されているのみで、記述の中心は、べギンから始まり、神秘思想の精神に育まれ、神の精神世界に深く沈潜し、聖寵の中で心と行いを捧げ、厳しい道徳的戒律の下で純潔に生きる修道女たちの思考と感性が、何の媒介もなく直接、幻視と法悦(恍惚:トランス状態,脱魂)へ昇りゆく魂の高揚過程自体が記されています。 これら至福なる神秘家・ヴィジョナリーたちは、形而上学的、心理的、倫理的あらゆる要素を形、色彩、言葉、響き、動きに置き換えています。 これらの幻視は、傍目から見れば、常軌を逸脱し、不健全、極端、悪趣味、ヒステリー、病的に見えるだろう。現代人の言葉を借りれば、「わけわかんね?」「へんじん」「おたく」のたぐいにくくられてしまうのだろうと思われます。 しかし、可憐なほどのナイーヴさ、深い内面の敬虔さから生まれた霊的雰囲気の場、信仰と直観の至福を充満させています。 内面の感情は、時として単純素朴、平明、稚拙な言葉を詩的表現へと昇華させます。 ドイツ文学史の著者ヨーゼフ・ナードラーは、 「へルフタの修道女(メヒティルト)が感得し、直観し、予感したところが、ここではほとんど燃え盛る熱情で満ち溢れていた。色彩は眼に焼付けられるほど鮮明に、響きは魂が吸い込まれるほど乱される。」 と、この写本を評価しています。 14世紀にこのような驚くべき精神の高みにあったこのエンゲルタール修道院は、15世紀には早くもその頂点から凋落の道を辿っていきました。1513年、ドイツのドミニコ会管区長ローレンツ・タウフキルヒナー(Lorenz Taufkirchner)は、 強硬な改革策に着手せざるをえなくなったが、その甲斐空しく、1565年、ついにこの修道院は、宗教改革者の手で教会財産を世俗化され、廃絶されるに至りました。
クーニグント・フォン・アイヒシュテット(Kunigund von Eichstét)の幻視によれば、 「この修道院は、大いなる神の聖寵とともにその半ばに至り、やがて聖寵は徐々に減じていくが、この修道院のある限り、常に主ご自身が、聖寵を恵まれ、けっしてやむことはない。とりわけ聖寵をなそうと思し召す人々をいくたりか、ここに置かれるであろう。この修道院のある限り、常に主ご自身が、聖寵に恵まれる人々をここに集められる。」 主は彼女にこの言葉通りになさった。そして、修道院の廃絶によって完了しました。
それでは、「神がエンゲルタールの修道女になされた数多くの聖寵について」(von der menig der genaden gotes die er mit den frawen ze Engeltal getan hat) の一部を下記に掲載します。
アーデルハイト・フォン・トロハウという修道女がいました。 幼い頃から彼女には、予言の霊力が備わっておりました。 彼女が修道院にやって来たての頃のこと、ある夜彼女は法悦(恍惚:トランス状態,脱魂)に浸っていました。 霊の内に引き上げられ、ヴィジョンを見ていると、 まだ、洗礼を受けていない幼子らが集められている場所にやって来ました。すると、子供らは彼女から逃げ去っていきました。彼女は言いました、 「どうして私から逃げるの。」 彼らは応えました、 「僕らは、原罪のせいでここに来て、もう二度と神を眼にすることはないのでこうするのです。でも、あなたはまだまだ悔い改められます。だから、僕らは、あなたが≪正しい洗礼≫を受けていないと、教えてあげているんですよ。」
数日後、朝課(早朝:AM3時〜4時、又は前晩PM9時頃)の後で内陣にある祭壇の前に伏していると彼女は、またしても法悦(恍惚:トランス状態,脱魂)に浸り込み、霊の内に引き上げられました。 今度は主の審判の場を前にしていました。 それは、まったく福音書に述べられている通りでした(マタイ13:49、25:33) 。 主の御使いが善い人を右側に、悪しき人を左側に選び集めていました。そこで、彼女は、自ら選ばれた人々の方へと走り寄っていきました。 すると、主は、御使いたちに言われました、 「アーデルハイトを呼びなさい。彼女は私の右手に立ってはならない。なぜなら、正しく洗礼を受けていないから。」 御使いたちが、彼女の所へ行って主の命令を伝えると、アーデルハイトは、御使いたちに向かって言いいました。 「あなたがたは神のせいで悲しい目に遭われたことはけっしてありますまい。でも、私は神ゆえにたびたび辛い目に遭ってきました。私は、あなたたちに言われたからといって、主の御もとから立ち去りたくはありません。」 それで、御使いたちは主に訴えました、 「主よ、アーデルハイトは、私たちがあなたゆえに一度も悲しい目に遭ったことがないと非難しました。私たちが言ったのでは、彼女はあそこから出ていこうとしません。」
そこで主は、マグダラの聖マリアを呼んで言われました、 「アーデルハイトに私の右側から出ていくよう言いなさい。」 今度は、マグダラの聖マリアが遣わされましたが、彼女はマグダラの聖マリアに向かってこう言いました、 「福音書は、主があなたから7匹の悪魔を追い出されたと伝えています。でも私には、自分がかつて大罪を犯したという覚えはありません。」 それで、マグダラの聖マリアは主に訴えました、 「主よ、アーデルハイトは、私から7匹の悪魔を追い出していただいたのに、自分はかつて大罪を犯した覚えはありませんと言って非難しました。私が言ったのでは、彼女はあそこから出ていこうとしません。」
主は、聖パウロを彼女に遣わされた。しかし、彼女は聖パウロにこう言いました、 「あなたは、キリスト教徒の迫害者でした。だから、あなたの言葉ゆえに主の御もとを去るのはいやです。」 それで聖パウロは主に訴えました、 「主よ、アーデルハイトは、キリスト教徒の迫害者だった私からの命令によって、主のもとを去るのはいやだと言って非難します。私が言ったのでは、彼女はあそこから出ていこうとしません。」
それから主は、聖ペトロを呼んで言われました、 「アーデルハイトに私の右側から出ていくよう言いなさい。」 しかし、遣わされた聖ペトロに向かって彼女はこう非難しました、 「あなたは、主を三度も拒みました。でも、私はそんなこと一度もしていません。」 こうして、聖ペトロも主に訴えました、 「主よ、アーデルハイトは、一度も主を拒んだことがないと言って、主を三度も拒んだことを私に思い出させて非難しました。私が言ったのでは、彼女はあそこから出ていこうとしません。」
ついに、主は、洗礼者聖ヨハネを遣わされました。すると彼女は言いました、 「あなたはどなたですか。」 聖ヨハネは言いました、 「私は、洗礼者ヨハネです。」 アーデルハイトは言いました、 「あなたは、他の人々に洗礼を施されたのに、私を地獄へ追われるのですか。私にも洗礼を授けて下さらなくてはいけません。」 こう言うと、彼女は、聖ヨハネにしがみつき、彼をしっかりととらえました。 それで、洗礼者聖ヨハネは、アーデルハイトの頭から被り物を取り去り、小さな手桶一杯の水を彼女に注ぎました。
すると、内陣にいた人々は、水がその場に流れ出したのを目撃したのです。 こうして、ことの次第一切を彼女は、修道院長に語られました。 人々は、この事実をレーゲンスブルクの修道院長に書き送りました。 彼は、この修道女をいかに処すべきかについて検討しておりましたが、ちょうどそこへドミニコ会士らがやって来て、 「私たちはこのような件について読んだことがあります。」 と、言った。 「それは、聖寵による洗礼だったのです。 とはいえ、それでもなお彼女には、秘跡にあずかるキリスト者としての権利を与えるべきです。」
そこで、聖ドミニコ会士らは彼女の母親の許へ使いを派遣し、彼女がどのように洗礼を受けたかを問い合わせました。 母親は言いました、 「私には、わかりかねます。あの子は大急ぎで洗礼を受けたのです。でも、ここに手ずから洗礼を施した女がおります。」 それから、使いの者は、その女にどのように洗礼を施したのか尋ねました。 女は言いました、 「私は、まったく正しく行いました。聖ニコラウスの御名において私は洗礼を授けました。」
こうして、聖ドミニコ会士らは、アーデルハイトを呼び、≪聖父と聖子と聖霊≫の聖名によって洗礼を施し、自ら代父となった。そのうちの一人は、修道士ハインリッヒ・フォン・アバハという名前でした。
その後、聖主は彼女に豊かな聖寵を授けられました。 受難週の水曜日、彼女は法悦(恍惚:トランス状態,脱魂)にわれを忘れ、それから復活祭前夜まで続きました。このとき彼女は、主の身に起こったことどもの一切を眼のあたりにしました。彼女は、主が鞭打ちの柱で打たれたとき、三打目に血を流されたのに気づきました。また、聖主は十字架上から彼女にこう言われました、 「愛する者よ、私はこれをあなたゆえに耐えているのです。あなたは私のために何を耐えますか。」
彼女がまだ年若く、成人していなかった頃、聖主はこう言われました、 「私はあなたを高い地位に就けよう。あなたは、この修道院でこれまでなかったほど力ある、しかも幸いなる修道院長となるだろう。だがそうなれば、私はあなたといつもしているように楽しく交流し合うことはできなくなってしまうだろう。どうしたいか、今選びなさい。」 彼女はこう答えました、 「いいえ、主よ、私はあなたの聖寵をいただかずにはおれません。」 主は言われました、 「あなたの背丈が、この先これ以上伸びないこと、そして、私がまだまだ多くの奇蹟をあなたに顕すつもりでいることを、証しとして受け取りなさい。」
悪魔が、アーデルハイトを大いに悩ましたことがありました。悪魔は、修道院から出ていくよう勧めた。 「もし、そうしたらお前は、人類のうちでも最も幸福で富んだ女となれるだろう。」 と、言いました。
あるとき悪魔は、修道女の姿をとって現れ、彼女を内陣から連れ出して、皆の世話を少々するように言いつけました。内陣から外に出ると、悪魔は姿を消しました。 彼女が祈っていると、悪魔は、耳元でささやきました、 「気をつけろ、気をつけろ、年を食ってしまったらもう何もできないぞ。」 それに対して彼女は応えました、 「だからなすべきことをしているのです。」
ある夜、悪魔がやって来て、一通の手紙を読み聞かせようとしました。すると、彼女の天使が現れ、手紙を取り上げ、手ずから破り捨てて、それを寝台の前にほうり投げました。 そして、こう言われました、 「愛しい者よ、助けに来ました。この手紙を耳にしていたらあなたは、二度と無垢な心をもてなかったでしよう。」 翌朝、天使が破棄したその手紙が見つかりました。
アーデルハイトが、修道誓願をしなくてはならなくなったときに修道院長は、これを受け入れたくないと考えました。というのも、彼女の父親は瀬病(ハンセン氏病)者だったからでした。 それゆえ、彼女はまことに心悲しく、今なお残る十字架像の前で激しく泣き沈みました。そのため、涙が十字架上の主の足を濡らしました。 すると、主は十字架から手を外され、彼女を自ら抱き起こされて、こう言われました、 「起きなさい。私自身が、あなたを助けて誓願を叶えよう。」
その後、幾日もしないうちにプライテンシュタインの騎士が、この修道院長に自分を裏切ったと言いがかりつける事件が持ち上がりました。修道院長は、無実だったにもかかわらず、レーゲンスブルクの聖十字架修道院へ逃れ、長らくその地にとどまることになりました。このため、新しい修道院長が選出されました。 この人は、アーデルハイトの誓願を喜んで受け入れたのです。
アーデルハイトに起きた奇すしき御業は、史実であり、エンゲルタール修道院における神の聖寵のひとつとして、クリスティーネ・エーブナーによって記されました。
神の聖寵(恵み)を受ける前提条件があるとすれば、「洗礼」の時に、あるいは信仰に入る決断をした時、必ず神と約束しているはずなのだがそれはいったい何か? 自分自身を奉献すること、あなたはあなた自身の肉に死に、あなたはキリストとともに霊によって生まれ変わったのです。もはや、あなたではなくあなたの内にイエズスがおられるのです。あなたは、もうひとりのイエズスなのです。 イエズスとともに生きる時、恩寵によって律法の支配から免れます。しかし、イエズスの言葉に聞き従うこと、聖霊の導きに聞き従うことが恩寵の内にとどまることになります。 悪魔は、肉の欲をいっぱい持ってきてあなたを誘惑します。誘惑に負けないで、耐え忍びなさい。イエズスの内に留まり続けなさい。神の恩寵によって豊かな葡萄の実りが、知らない間に成長しているでしょう。イエズスを愛し、特別にイエズスの愛される人になれるよう内なる聖霊の声に耳を傾け、して欲しいことは何でも喜んでしなさい。してはいけないこと神の嫌われることは、あなた自身も嫌いになるでしょう。 こうして、あなたの成すことは、何でも神の聖寵の範囲内にあり、あなたの欲することは何でもイエズスの欲することになります。あなたは、もうひとりのイエズスとなり、聖霊とともに歩むため霊の内にあって自由になるでしょう。 あなたはきっと、心も物質的にも貧しく、謙遜になっていくでしょう。 やがて、あなたを通してイエズス・キリストの栄光が表されるでしょう。
注:ベギンとは? ベギンの発生は、おそらくA.D.1100年以降、ではないかと考えられる。聖ドミニコ会や聖フランシスコ会の成立とほぼ同時期に自然発生的な形で都市内部に同じ志を持つ人たちが、小さな共同生活をおくるようになったことから始まる。やがて、在俗女性信徒べギン(beguina;béguine)共同体へと発展していく。 ベギンの構成員は、特権的階級に属さない女性にも開かれていたシトー会や托鉢修道会などがバックアップしていたようで、女性信徒べギンや男性信徒べガルド(beguinus;bégard)は、伝統的な共住修道生活への召命を感じておらず、しかし独居の隠修生活をも望んでいない。ごく普通の一般市民と同じように、女性は縫製や刺繍、病人の介護や子供の教育、男性は機織などの仕事で生計を立てながら、少数の集団で共同生活(béguinage)を送っていたとされる。多くのべギナージュが、ドミニコ会士の指導を受けていたせいもあり、新興の托鉢修道会を競争相手と見る教区司祭から、疑惑の眼を向けられいた。
当時、自然発生的にべギン運動が徐々に発展していったのは、都市化が進んだネーデルラントのブラバント地方で、敬虔な女性たちは、主に手仕事をしながら相互扶助の共同生活を営み、病人の看護や教育などにも携わっていた。彼女らは、シトー会の指導を受け、一般信徒にも可能な範囲で福音の理想を実践しようと努めた。 ナザレトのべアトレイスをはじめ、シトー会の修道女には、べギンとなんらかの接点をもつ者が多く、彼女たちの共通点は、神秘的傾向{脱塊と幻視、神との神秘的な一致の経験}を持つ者が多かった。
フランドル、ブラバント、プロヴァンスなどのべギナージュからは、後世に残るべギンたちが輩出したが、14世紀には「聖霊派」(spirituales)やフロリスのヨアキム(Joachim de Floris;Gioachino da Fiore 1135年頃〜1202年)派、さらにはカタリ派などの異端諸派と混同されて厳しい迫害の対象となった。 その代表的な被害者が、マルグリット・ポレート(Marguerite Porete 1310年没)だろう。 彼女の著作が、異端の嫌疑を受け、1310年6月1日パリ、グレーヴ広場の火刑台上で死を遂げた。 今日では彼女の神秘霊性は、正統な神秘神学の伝統に連なり、その枠組みの中でこそ正しく評価されると言われている。 その著作こそ、「単純な魂の鏡」(Mirouer des simples ames)であり、原典はフランス語で書かれていた。すでに14、15世紀には、ラテン語、イタリア語、英語に翻訳されて著者不明のまま、啓示を受けた正統な信仰の証しによる信心書としてヨーロッパ中で広く読み継がれていた。 次回は、マルグリット・ポレート著作の「単純な魂の鏡」を紹介する予定です。
【 参考文献 】
翻訳の底本
Der Nonne von Engeithal Büchlein von der genaden uberlast, herausgegeben von Karl Schröder (Bibliothek des Litterarischen Vereins in Stuttgart CVIII), Tübingen 1871
底本以外の参考文献
Das Büchlein von der Gnaden Überlast von Christine Ebnerin.
Aus dem Altdeutschen übertragen und eingeleitet von Wilhelm Oehl (Dokumente der Religion, XI. Band), Paderborn 1924
上智大学中世思想研究所/編訳監修:冨原眞弓
聖なる読書と伝説「薔薇窓」:http://baramado.info/ 著者:Joanne del apocalypse
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