神の使徒たちと並ぶトゥールの聖マルティヌスLatin マルタン仏 マルティン独 マーティン英


Simone Martini  Saint Martin Renounces his Weapons (1312-1317)
Simone Martini Saint Martin Renounces his Weapons (1312-1317)
シモン・マルティーニ「聖マルティネスは、彼の武器を捨てます」


トゥール 聖マルティヌス 
X 316年頃〜397年
St. Martin of Tours St.Martinus

[伝記]
 トゥールの聖マルティヌス は、トゥールの司教、キリスト教の聖人。
トゥール(Tours)は、フランス中部に位置する都市、アンドル=エ=ロワール県の県庁所在地。彼は、コンスタンテイヌス大帝の治世にハンガリーのパンノニアで生まれ、父はローマ高級軍人でパドヴァ(現イタリア)に駐屯していました。ローマ帝国騎士身分として育ち、15歳のとき、軍隊に入り属州ガリアのアミアン(現ドイツ)で軍務につきました。
 伝承によれば、アミアン市門の番をしているとき、偶然に見かけた貧者に自分の軍衣を半分に切って分け与え、このときの衣をフランク王国メロヴィング朝は、聖遺物として宝物にしていたと言います。
 聖マルティヌスは、18歳の時、洗礼を受けキリスト教に改宗しました。
 2年後、聖マルティヌスは、修道者となる決意をし、ウォルムスで軍隊を辞し、トゥールで三位一体論者として著名なポワティエの聖ヒラリウスの弟子となりました。このあとしばらく聖マルティヌスが、ティレニア海の島に身を隠し、隠修生活をおくったと伝えられています。
 361年、聖ヒラリウスが、ポワティエに帰還すると聖マルティヌスも同行し、郊外に修道院を造りました。371年、トゥールの司教に任命された。トゥールの郊外、ロワール川の対岸に修道院を建てその規則を定めました(Majus Monasterium)。一説には、これが、ヨーロッパ最初の修道院であるとし、聖ベネディクトゥス会則への先き駆けとみられています。
 殉教者でない人が、最初に聖人として認められたのは、聖マルティヌスです。
 彼には、おびただしい逸話や伝説が残っています。カトリックでの祝日は、11月11日です。



黄金伝説に書かれた司教聖マルティヌス(Martinus)の伝説と奇蹟の数々

 聖マルティヌスの伝記を書き残してくれたのは、彼の弟子、スルピキウスという添え名をもつセウェルスと言う人でした。彼は、ゲンナディウスによって著名人のひとりに挙げられています。
 聖マルティヌスは、パンノニアの町サバリアで生まれましたが、教育は、イタリアのパヴィアで受けました。彼の父親は、軍団の司令官でした。彼も、副帝ユリアヌスとコンスタンティウス(のちのU世)の下で父とともに軍役に服しました。しかし、自分から望んで軍人になったのではなかったと言われております。それと言うのも、彼は、小さいころから聖寵を受けていたそうです。
 12歳のとき、両親が反対したにもかかわらず、キリスト信者の集まりに出かけ、洗礼志願者になって信仰の手ほどきを受けておりました。そして、彼の虚弱な身体のさまたげがなかったら、きっと荒野に入って隠修士になっていたのではないかと伝えられています。
 ところが、両副帝の布令によってもと軍人の子息は、父親にかわって軍務に服することになっておりました。そのために、聖マルティヌスは、15歳にして軍籍に身を置くことを余儀なくされました。彼は、従者をひとりしか置かなかったのですが、従者が身のまわりの世話をすると言うよりも、彼の方が従者の世話をし、よく靴をぬがせては磨いておりました。
 ある冬の日のこと、彼が馬でアミアンの市門を通りぬけていこうとしたとき、ひとりの裸のおもらいに出会いました。誰ひとりとして施しをめぐむ人はありませんでした。
 マルティヌスは、
 「この男は、自分に助けられるように定められているのだ。」
 と、悟りました。
 彼には施すものが何もありませんでしたから剣を抜いて着ていたマントをふたつに切り、ひとつをその貧しい男に与え、残りの半分を自分が着ました。
 その夜、聖マルティネスが、あの貧しい男に与えた半分のマントをまとったキリストが、彼の夢枕に立たれました。
 聖主は、まわりに立っている天使たちに言われました、
 「マルティヌスは、まだ洗礼を受けていませんが、このマントをわたしに着せてくれたのです。」

 聖マルティヌスは、そのことをすこしも鼻にかけたりしないでこれは、神の慈愛なのだと知り、18歳になられた時に洗礼を受けました。
 しかし、軍団司令官に懇望されてなお、2年間軍務に服していました。そのかわり、
 「満期になったら俗世を棄てるつもりです。」
 と、司令官に約束いたしました。

 そのころ、蛮族たちが、ガリアに侵攻してきました。副帝ユリアヌスは、これを討伐に出かけることになりました。そこで、将兵たちに多くの給金を前払いしました。しかし、聖マルティヌスは、もう軍籍にはとどまらないことにしておりましたので、給金を受けとろうとはせずにユリアヌスに言いました、
 「わたしはキリストの戦士です。ですから、戦争に出かけるわけにはまいりません。」
 これを聞いたユリアヌスは、かんかんに怒りながら、
 「軍務を放棄するのは信仰のためではなく、敵と戦うのがこわいからだろう。」
 と、どなりつけました。
 聖マルティヌスは、毅然として答えました、
 「これが信仰のためではなく、臆病のせいだと仰せになるのでしたら、あす武器をもたずに敵の軍勢のまえに立ち、盾(たて)や兜(かぶと)のかわりに十字のしるしだけでキリストの御名においてみごと敵陣を突破して見せましょう。」
 これにたいしてユリアヌスは、
 「明日、彼に見張りをつけ、武器をもたせずに十字の印だけを持たせて蛮族の前に立たせよ。」
 と、命じられました。

 翌日、十字の印を持った聖マルティヌスを前にした敵軍は、使者を送って来ました。そして、ローマ軍に降伏を申し入れ、武器や兵糧をことごとくユリアヌスに差し出したのです。
 疑いようもなく、この無血勝利は、聖マルティヌスの功績でした。

 それからまもなくして、彼は、ポワチェの司教聖ヒラリウスのもとに行かれました。
 聖ヒラリウスは、彼を侍祭に任じられました。
 聖主は、夢の中で、
 「異教徒の両親を訪ねるようにしなさい」
 と、彼にさとされました。
 いよいよ出発するときになってのことです。聖主は、夢の中で、
 「道中でいろいろ不愉快な目にあうだろう。」
 と、告げられました。そしてお告げの通りになりました。
 アルプス山中で盗賊の手に落ち、盗賊のひとりが、彼の首を切り落とすために斧を打ち降ろそうとした瞬間、別のひとりがその手を止めました。盗賊たちは、聖マルティヌスをうしろ手に縛りあげて仲間のひとりに見張りをさせておきました。見張りの男は、
 「こわくなかったのか。」
 と、聖マルティヌスにたずねました。彼は、
 「今まで、これほど安心しきっていたことはありません。苦難のときこそ、神のお慈悲が、いちばん近いのです。」

 そう言って教えを説き始め、その男をキリスト教に改宗させてしまいました。
男は、聖マルティヌスをもとの道に連れもどし、それからのちは、良きわざをおこなって生涯を終えました。

 ミラノの町を過ぎた時、人間の姿に身を変えた悪魔があらわれて、
 「どちらへいらっしゃるのですか。」
 と、たずねました。聖マルティヌスは、
 「神が、わたしを呼んでおられるところへ行くのです。」
 と答えました。悪魔は、
 「どこへ行かれようと、悪魔が邪魔だてをしますよ。」
 しかし、聖マルティヌスは、
 「聖主が助けてくださいます。人間からどんな仕打ちを受けようと、少しもこわくありません。」
 そう、言ったとたん、悪魔の姿は、かき消えました。

 聖マルティヌスは、母を改宗させることに成功しましたが、父親は、異教の信仰を棄てようとしませんでした。そのころ、世界中にアリウス派の異端がはびこっておりました。
 聖マルティヌスは、ほとんどひとりで孤軍奮闘しなくてはなりませんでした。公衆の面前で鞭打たれ、町から追い払われてしまいました。
 そのため彼は、またミラノに舞いもどり、あらたに修道院を建てました。しかし、ここでもアリウス派に追いだされ、司祭ひとりを道づれにして、ジェノヴァ湾内にあるガリナリアという名の島に行かれました。ここでほかの草にまじっていたへレボルスという毒草を食べてしまいた。彼は、もう死も近いと感じましたが、祈っているうちに危険と痛みをみごとに克服しました。
 へレボルスは、クリスマス・ローズともいい、きんぽうげ科クリスマス・ローズ属の植物です。根は、下剤に用いられます。中世では、精神病に効くと考えられていました。
 それから、聖ヒラリウスが追放を解かれて帰ってくると聞くや、彼を出迎えに行き、361年、ポワチェの近く、リギュジェにガリアで最初の修道院を建てました。

 あるとき、しばらく旅に出て不在にしておりましたが、再び修道院に帰ってくると、留守のあいだにひとりの洗礼志願者が、洗礼を受けないまま死んでおりました。そこで、聖マルティヌスは、遺体を庵室に運び、そのうえにかがみこんで一心に祈り、死者をよみがえらせました。
 この人が、そののちたびたびこの話をされたところによりますと、
 「私は、すでに審判を受けどこか暗い場所に送りこまれましたが、その時ふたりの天使が裁き 主にむかって、
 『マルティヌスが祈っているのは、この者のためでございます。』
 と申しあげました。
 すると、裁き主は、私をよみがえらせてマルティヌスのもとに連れもどすようにと天使たちにお命じになられました。」
 と、言うことでした。

 聖マルティヌスは、首を吊って死んだもうひとりべつの人物をもよみがえらせました。そのころ、トゥールの町の司教の座が空いたままになっていました。町衆は、いやがる聖マルティヌスに、
 「どうか司教になってください。」
 と、懇願しておりました。しかし、司教を選ぶために集まっていた人たちのなかの何人かは、聖マルティヌスの選任に反対をしていました。聖マルティヌスは、風采があがらず、容貌もみにくいというのが、その理由でした。なかでも擁護者の意味を持つデフェンソルという名の人物は、とくにきびしい反対者でした。
 ところで、そのときはまだ、読師がおりませんでした。それでだれかが、『詩篇集』を手にとり、開いたページの最初の詩篇を読みました、
 「主よ、あなたが敵と擁護者とをお静めくださるように、みどり子と乳のみ子の口があなたをほめたたえます。」(詩篇8:2)
 デフェンソルは、この詩句によって一同の嘲笑の的になり反対することをあきらめました。
こうしてマルティヌスは、司教に叙階されましたが、町の人びとの騒がしさに我慢がならず、町からすこしはなれた場所に修道院を建て、80人の弟子たちとそこに住んで厳格な修道生活をしました。この修道院では、病気のとき以外は、だれもぶどう酒を飲まず、歌舞伎役者のような華美な服を着ることは、罪と見なされました。この修道院からは、多くの町の司教たちが輩出しました。
 そのころ、ある人物が殉教者としてこの地方であがめられていました。聖マルティヌスは、この人物の生涯や事跡をしらべみましたが、どこにも記録が残っていませんでした。そこで、彼の墓前に立って、
 「この人はどういう人物で、どんな功績があったのかお教えください。」
 と、主に祈りました。
そして、ふと左の方へ顔を向けるとひとつの黒い影法師が立っておりました。
 聖人が問いただすと、
 「わたしは、人殺しで泥棒でした。悪行のたたりで殺されたのです。」
と、影法師は答えました。
 聖マルティヌスは、このにせ殉教者のために設けられた祭壇をただちにとり壊させました。

 ここからしばらく、セウェルスとガルスとの『対話』の中のお話をいたしましょう。

 あるとき、聖マルティヌスは、緊急の要件があってウァレンティニアヌス帝T世に会いに行かれました。しかし、皇帝は、
 「気にいらない願いごとをもってきたにちがいない。」
 と遠くから聖人の姿を見て知ると宮殿の門を閉めさせました。
 聖マルティヌスは、三度も門前ばらいの目にあいましたので、粗衣をまとい、一週間飲まず食わずの苦行を続けました。それから、天使の言いつけに従ってもう一度、宮殿に出かけ皇帝の部屋まですすんで行きました。だれも、彼を引きとめようとはしなかったのです。皇帝は、彼の姿を見ると、廷臣たちが彼を通したことに腹をたて玉座から立ちあがろうともしませんでした。
 すると、突然、玉座に火が付き、皇帝の座っている椅子の背もたれ部分からところが燃え出したのです。
 皇帝は、いやでも立ちあがらざるをえなくなり、そして、
 「神の威力をまざまざと感じました。」
 と、打ち明け、聖人をこころをこめて抱擁し、聖人が願いでるよりもさきに、
 「すべてあなたのおっしゃるとおりにいたしましょう。」
 と、言いまた、たくさんの贈りものを差し出しました。しかし、聖マルティヌスは、それを受けようとはしませんでした。


 この『対話』の中には、彼が三人目の死者をよみがえらせたときの話が出てきます。

 ある若者が死にました。その母親は、
「どうか息子の命をもう一度、よみがえらせて下さい。」
と、涙ながらに聖マルティヌスに頼みました。聖人は、数えきれないほど大勢の異教徒たちが集まっている野原のまんなかでひざまずいて祈りはじめました。すると、若者は、みんなの見ている前でよみがえりました。これを目撃した異教徒たちは、みんな回心してキリストを信じるようになりました。


 一隻の船が遭難しかかっていました。乗りあわせていたひとりの商人は、まだキリスト信者ではなかったのですが、
 「聖マルティヌス神父さま、どうぞお助けください。」
 と、叫びました。すると、たちまち嵐がおさまりました。


 草や木も、聖人の言うことを聞きました。彼は、あるところで大昔の神殿をとり壊して、偽神にささげられていた一本の樅(もみ)の大木を引き抜こうとしました。ところが、異教徒の農民たちがこれに反対し、そのひとりがこう言いました、
 「あんたが、あんたの神をほんとに信じているんなら、わしらがこの木を切りたおすから、それを受け止めてみるがいい。あんたが言うように神が一緒にいてくれるんなら、あんたの神が助けてくれるはずだろう。」
 聖マルティヌスは、それに同意しました。農民たちが木を切りたおすと、体を縛られていた聖人のうえに落ちかかってきました。彼は、木にむかって十字の印を切りました。すると、木は、たちまち反対側にたおれて、安全な場所から様子を見守っていた農民たちをあわや下敷きにしてしまうところでした。彼らは、この奇蹟を目のあたりにしてキリスト教に改宗しました。




 さらに、『対話』に出てくる話をいたしましょう。

 理性のない動物たちも彼の言いいつけに従いました。
 あるとき、彼は、何匹かの犬が小兎を追いかけているのを見ました。それを見て、
 「兎を追うのはやめなさい。」
 と、犬たちに命じました。すると、犬たちは、すぐに立ちどまり、金縛りにあったかのようにその場から動かなくなりました。

 また、別のとき、一匹の蛇が川を泳いで渡ろうとしていました。彼は、
 「聖主にかわって申しつける。こちらへもどっておいで。」
 蛇は、たちどころに彼の言葉にしたがって向きを変え、こちらの岸にもどってきました。
 彼はため息をついて言いました、
 「蛇でさえ、わたしの言うことを聞いてくれるのに、人間たちは、わたしに耳をかそうともしない。」


 一匹の犬が、聖マルティヌスの弟子のひとりに吠えかかってきました。とっさに弟子は言いました、
 「マルティヌス聖人さまにかわって申しつける。おだまりなさい。」
 すると、犬は、舌を切られたように声を出さなくなりました。

 聖マルティヌスは、たいへん謙徳にすぐれていました。
 あるとき、パリの町角でみんなからいやがられているハンセン氏(らい)病の人に会いますとその人に接吻して祝福を与えました。
 すると、その人は、たちまち病気が癒されてきれいな体になりました。


 また、聖マルティヌスは、教会にいる間、けっして司教用の椅子にすわりませんでした。
彼が、教会で司教の椅子に座っているところを見た人は、なかったといいます。
いつも三脚床几(さんきゃくしょうぎ)とよばれる粗末な腰掛けに座っていました。

 彼は、たいへん聖品の高い人 ≪使徒の仲間≫ と、呼ばれておりました。これは、彼が聖霊の恵みを受けていたからでした。その理由は、聖霊が、かつて使徒たちのうえに降臨したときと同じように火のかたちをして彼のうえに降りてきたからでした。それで、使徒たちも、まるで仲間のところに行くかのようにしばしば、彼のもとを訪れたというのです。

 あるとき、聖マルティヌスは、修道院の自分の庵室にひとりきりでこもっておりました。弟子のセウェルスとガルスは、扉の外で待っていました。
 ところが、しばらくすると突然、ど肝をつぶすほどびっくりするようなことが起こりました。
 なぜなら、部屋の中から幾人もの人たちが、話し合っている声を聞いたからです。あとで、ふたりは、聖マルティヌスにそのことを話し尋ねてみますと、
 「では、話してあげよう。しかし、だれにも洩らさないようにしてもらいたい。聖女アグネスさまと聖女テクラさま、そして聖母マリアさまが、わたしの部屋にお見えになっていたのです。」
 「そして、この日だけでなく、よくお見えになられる。それに、使徒の聖ペトロさまと聖パウロさまもしょっちゅう訪ねてこられる。」
 と、ふたりに打ち明けました。

 彼は、きわめて公正な人でした。ある日、皇帝マクシムスに招かれて、彼が最初に杯を受けたとき、それを飲みほしたあと皇帝に杯をまわすであろうと、一同の人たちは身構えて見ておりました。しかし、彼は、杯を背後におられた貧しい司祭に渡されました。自分の次に杯を飲みほすのは司祭が、いちばんふさわしいと判断しされたからで、地上のいかなる地位よりも神の奉仕が高いことを教えられました。もし、司祭より皇帝や友人たちを先にしたら公正さを欠くと考えたられたのでしょう。

 彼は、忍耐心も強くありました。司教であるからいちばん位が高かったにもかかわらず、よく配下の聖職者たちからあなどりを受けましたが、そういうときでもじっと我慢して相手を罰するようなことはせず、また、そのために相手への愛を棄てることもありませんでした。怒ったり、悲しんだり、笑ったりしている彼を見かけた者は、ひとりもおりませんでした。彼の口から出るのは、キリストの御名だけであり、彼の心にあるのは、柔和さと平安と慈愛だけでした。

 あるとき、たまたま身なりをととのえないでろばに乗って出かけたことがありました。黒いマントが、彼の身のまわりでばたばたと風にひるがえっておりました。
 そこへ数人の騎士たちがやって来ました。騎士たちの馬は、彼の異様な格好を見てあとずさりをしました。騎士たちは、いきなり馬からとびおりると聖マルティヌスにおそいかかってめった打ちにしました。
 しかし、彼は唖(おし)のように声もたてず、じっと背中を打たれるままになっていました。
 騎士たちは、
 「いくら打っても痛がりもしないで平然と受けながしている。」
 と、思っていましたからその態度にいっそう腹を立て、さらに打ちのめしたのです。
 騎士たちが、立ち去ろうと馬に乗りました。ところが、彼らの馬は、たちまち大地に根が生えたようにぴくりともせず、いくら鞭を入れても大きな岩みたいに動こうとしませんでした。
 とうとうあきらめて騎士たちは、聖人のところに戻って来ました。
 「知らなかったとはいえ、悪いことをいたしました。」
 と、詫びました。聖人は、彼らを赦しました。
 すると、馬たちは、いきおいよく駈けて行ってしまいました。

 彼は、祈ることにたいへん熱心でした。ぬかづいて祈るか、宗教書を読むかしないでは、ひとときもすごさずにはおれませんでした。
 読書や仕事をしているときでも、けっして祈りから心をそらすことはなかったのです。鍛冶屋が仕事をはかどらせるために「タン、タン、タン・・・」と鉄床(かなとこ)をたたくように、彼も仕事をしている最中でも「イエズス、イエズス、イエズス・・・」と、お祈りをするのがつねでした。

 聖マルティヌスは、自分にたいしてたいへんきびしいひとでした。
 セウェルスが、エウセビウス宛の手紙によれば、聖マルティヌスが自分の司教区のある町に行ったときのことでした。ここの聖職者たちは、司教様のためにわらをたっぷり敷いたやわらかい寝床を用意いたしました。彼は、そこに身をよこたえると、慣れない寝床のやわらかさにびっくりしました。というのは、ふだんの彼は、何も敷かない地面に粗毛の寝袋に入って眠ることにしていたからでした。それで、こういうふかふか寝床が我慢ならず、わらを全部投げ出し、地面に直接寝られました。ところが、夜中のことです。彼が投げだしておいたわらに火がつきました。目をさました聖マルティヌスは、外に出ようとしましたが、どうしても出ることができませんでした。
 火は、彼をもとらえ、すでに衣服が燃えだしました。そこで彼は、祈りといういつもの避難場所に逃げ、十字のしるしを切りました。すると、火のなかにいながら火傷をするどころか、つい先ほどまでは、炎を熱いと思っていたのに今は、ひんやりした露のように感じられました。
 火事に気がつき目をさました修道士たちは、すぐさま駈けつけてきました。彼らは、てっきり司教さまは焼け死んだものと思っていました。ところが、火傷ひとつしないで炎の中にいるのを見て、無事助け出しました。

 聖マルティヌスは、罪びとへの大きな慈愛をもって、贖罪をしようとするすべての人々を温かくふところに迎え入れました。
 あるとき、悪魔が聖マルティヌスのところにやってきて、
 「あなたは、いったん地獄に落ちた人間でも引き受けて贖罪をさせてしまう。」
 と、文句をつけました。聖マルティヌスは、悪魔に答えました、
 「かわいそうな悪魔よ、おまえ自身も人間を誘惑することをやめ、自分の罪を痛悔すれば、おまえにキリストのお慈悲を約束してやろう。地獄にいるのは嫌だろう。改悛すれば、天使となって天国に住まえる。わたしは、それほど聖主を信頼しているのだよ。」

 聖マルティヌスは、貧しい人たちにことのほかやさしい人でした。
 ある祝日のこと、聖マルティヌスが教会に行くと裸の貧しい男が彼についてきました。聖人は、この男に着るものをあたえるよう助祭長に言いつけました。ところが、助祭長は、いつまでもぐずぐずしていたため、見かねた聖人は、聖具室に入っていき自分の下着をぬいで男に与え、すぐに立ち去るように命じました。
 さて、助祭長が、
 「ミサをはじめる時刻ですよ。」
 と、聖マルティヌスに告げると、聖人は、
 「裸の男が、下着を着るまではミサ聖祭に行くことができない。」
 と、答えました。裸の男というのは、聖マルティヌス自身のことを言われたのでした。しかし、修道服を着ておられたので助祭長には、聖人がその下になにも着ていないとは知るよしもなかったのです。それで、
 「ここには裸の男などいません。」
 と、助祭長は答えました。聖人は言いました、
 「わたしに下着を持って来て下ださい。そうすれば、着る物を必要とする裸の男は、いなくなります。」

 助祭長は、やむなく市場へ出かけて行って、パエヌラという短い下着を銀貨五枚で買いもとめました。パエヌラ(paenulla)とは、paene nulla “何も着ていないも同然” という意味です。
 助祭長は、それをもって帰り、不機嫌そうに司教様の足もとにほうり投げました。
 聖人は、部屋の片隅に行ってその下着を着ましたが、袖(そで)は、ひじまでしかなく、丈(たけ)は、かろうじてひざまでしかありませんでした。そして、このまま彼は、ミサ聖祭をはじめるために出ていきました。
 ところが、ミサ聖祭をつとめているあいだに彼の頭の上に火の玉≪聖霊≫が降りて来られ、多くの人びとがこれを目撃しました。彼が、使徒たちにならぶ者と言われるようになったのは、このためです。
 この奇蹟について、ヨハネス・ベレト師は、こう書いています、
 「ミサ聖祭のさい、いつものしきたりどおり、両手を高く神に向かって挙げると、亜麻布の袖が下にさがりました。彼の腕は、太くもなく、肉づきがよいわけでもありませんが、先に述べた下着の袖が、かろうじてひじのところまでしかなかったのです。そのために彼の腕は、むきだしになりました。
 と、その時です。熾天使たちが、燃えるがごとき慈悲をたたえ、宝石をちりばめた黄金の腕輪を持って来られて彼のむきだしの腕を飾られました。」


 あるとき、毛を刈りとられた、小羊を見て聖マルティヌスは言いました、
 「あれは、福音書の教えが実行されたのです。あの羊は、下着を二枚もっていて下着をもたない者に1枚わけてやったのです。さあ、あなたがた人間も同じようにしなさい。」

 「下着を2枚もっている者は、もたない者にわけてやりなさい。」(ルカの聖福音3:11)
 この教えを述べるのは、洗礼者聖ヨハネです。

 聖マルティヌスはまた、悪霊を追い出す賜物、大きな能力をもっておりました。そして、多くの人々を悪霊から救いました。
 一頭の雌牛が悪霊にとりつかれ、ところかまわず暴れまわりはじめました。たくさんの人々を突き殺しました。ちょうどそこへ聖マルティヌスとその一行がやってきました。雌牛は、一行に向かって怒り狂ったように突進してきました。聖マルティヌスは、手をあげて、
 「とまれ!」
 と、牛に命じました。とたんに牛は、ぴたりと立ち止って身うごきもしなくなりました。
 そのとき、聖人は、悪霊が牛の背中にまたがっているのを見て悪霊を叱りつけました、
 「悪霊よ、この雌牛から立ち去り、罪もない動物を苦しめるのをやめなさい。」
 すると、悪霊は、すぐに雌牛から出て逃げていきました。雌牛は、聖人の足もとにひざまずき、彼の命令に従って仲間のところへおとなしく帰っていきました。

 聖マルティヌスは、悪魔や悪霊を見わける能力の賜物を持っておりました。
彼の眼には、彼らの姿がはっきり見えておりました。どんな姿に化けていてもひと目で見破ってしまいました。彼らは、メルクリウスに化けていることがいちばん多く、ときにユピテルの姿をして、ときには、ウェヌスやミネルヴァの姿をしていることもありました。そういう時、聖マルティヌスは、彼らがばけている偽神の名をよばわって叱りつけました。いちばん質(たち)の悪いのは、メルクリウスでした。

 あるとき、悪魔は、王の姿であらわれました。緋色の衣を着て、王冠をかぶり、黄金の長靴をはき、口もとをほころばせ、なんともおめでたい顔つきをしていました。ふたりは、長いことだまったままにらみあっていましたが、ついに悪魔が口を開きました、
 「マルティヌスよ、あなたがあがめている相手がわかるか。わたしは、キリストである。地上に降臨しようとおもうのだが、まずあなたに姿をあらわそうとおもったのである。」
 聖マルティヌスがあいかわらずだまったままでいるので、悪魔はさらに言いました、
 「マルティヌスよ、わたしを眼のあたりにしながら、どうして信じないで疑っているのか。
わたしは、キリストである。」
 そのとき、聖マルティヌスは、聖霊の注賜(インフシオ)を受けてこう言いました、
 「わが主イエズス・キリストは、『緋衣をまとい、金ピカの王冠をかぶってあらわれる。』などとはおっしゃらなかった。だから、わたしは、ご受難の姿もしていなければ、磔刑の聖痕もないような者が、キリストであるとは信じない。」

 この言葉を聞くやいなや悪魔は、部屋じゅうに硫黄のような腐った悪臭を残してたちまちかき消えてしまいました。
(実際、悪魔のいる場所で悪魔祓いをすると、たいてい温泉地帯で吹き出ている硫化硫黄のガスような悪臭を放ちながら悪魔は退散します。地獄は、地底のマグマと直結しています。
 この現世と言われる地上の物質世界と精神の霊魂世界とは、一枚のコインのごとく表裏一体であり、地つづきになっています。高温の火と熱によって霊魂を永遠に苦しめるのです。霊魂は、燃え盛る炭火のようになって吹き上げられ、また、マグマの火の池に落ちて行きます。これを永遠に繰り返しています。
 特に最近、硫化硫黄のガスを吸って自殺する人が急増しておりますが、これは悪魔の悪知恵です。自殺は、自分自身への殺人罪です。己の霊魂を地獄に落とします。悪魔は真っすぐ深淵に自殺者の霊魂を連れ去ります。悪魔に霊魂を渡してはなりません。)


 聖マルティヌスは、はやくから自分の死期を予知し、それを修道士たちに教えておりました。そのころ、カンデの司教区でもめごとがありました。その調停に出かけていく途中、かいつぶりの仲間のもぐり鳥たちが、たくみに魚をとらえているのを見た聖人は、
 「あれは、悪魔のしわざだ。気をゆるしている者に狙いをつけ、不意をおそい、すばやく呑みこんで、いつまでも飽きることを知らない。」
 そう言ってから、
 「この水辺から立ち去って荒野に行きなさい。」
 と、鳥たちに命じました。鳥たちは、いっせいに飛びたって森や山のほうにむかっていきました。
 さて、聖マルティヌスは、カンデの司教区にしばらく滞在している間に体力が衰えはじめ、弟子たちに死期が近いことを告げられました。弟子たちは、これを聞いて泣きだし、
 「どうしてわたしたちを置いていってしまわれるのですか。わたしたちをおいてきぼりの天涯孤児にされるのですか。恐ろしい狼どもがあなたの小羊たちの群れに襲いかかろうとしておりますのに。」
 弟子たちの涙き声と嘆きの言葉に胸を打たれた聖マルティヌスは、一緒になって泣きながらこう祈りました、
 「聖主よ、わたしがまだあなたの民にとって必要なのでしたら、働くことをすこしもいといません。あなたの御心のまま行なわれますように。」

 彼は、迷いながらもそう祈りました。彼にすれば、別れがたい弟子たちとのつらい気持ちもありましたが、キリストとも、もうこれ以上離れていたくなかったのです。
 それからしばらくのあいだ高熱に苦しんでおられました。弟子たちは、寝床にわらをすこし敷かせてほしいと申し出ました。それまでは、灰のうえに寝袋を置いただけで寝ていたからでした。しかし、聖マルティヌスは答えました、
 「灰のうえで袋にくるまって死ぬのが、キリスト者にいちばんふさわしいのです。もし、わたしがあなたがたにそれ以外の手本をしめしたら、大きな罪を犯すことになります。」
 彼は、そう言いながらもずっと眼と手を天にあげ、片時も祈りを忘れることがありませんでした。
 彼は、仰向けに寝たままでした。司祭たちは、
 「向きをお変えになればいくらかでもらくになりましょう。」
 と、言いました。しかし、聖人は、
 「心を聖主の方に向けられるよう地ではなく、天が見える姿勢のままにしておいて下ださい。」
 そう言っているとき、そばに悪魔が立っているのを見たので、
 「血も涙もない獣め、こんなところで何をしているのだ。いくら探しても、この身に不浄の罪は見つかるまい。わたしは、アブラハムのふところに入るのだ。」
 と、叱りつけ、言いおわると霊を神にゆだねられました。
 享年81歳、主の紀元390年ごろに即位したアルカディウスとホノリウス両帝の治世のことでした。彼の顔は、すでに変容したかのように輝いていました。あたりには天使たちの歌声がひびき、多くの人びとがそれを聞きました。

 聖マルティヌスの訃報を聞くと、ポワチェとトゥールの人たちが集まって来られ、両者のあいだに大騒動がもちあがりました。ポワチェの人たちは言いました、
 「このかたは、修道士としては、わたしたちの仲間です。わたしたちは、わたしたちにゆだねられたこのかたを返していただきます。」
 これにたいして、トゥール側の言い分はこうでした、
 「あなたがたは、神からこのかたをとりあげられたのですよ。神は、このかたをわたしたちにあたえられたのです。」
 ところで、ポワチェの人たちがぐっすり眠りこんでいた真夜中ごろ、トゥールの人たちは、聖人の遺体をこっそり持ち出し、小舟に乗せてリゲリス(ロワール)川をさかのぼり、トゥールへ運んでいってしまいました。

 聖マルティヌスが世を去った時とおなじ時刻、ケルンの司教聖セウェリヌスは、日曜日の朝ミサをすませてからいつもの習慣で町の聖所を散策しておりました。すると、天上から天使たちの歌う声が聞こえてきました。急いで助祭長を呼び、
 「何か聞こえないかね。」
 と、尋ねました。助祭長は、
 「なにも聞こえませんが。」
 と、答えました。司教様は、
 「一生けんめいに聞くのです。」
 と、注意されました。
 そう言われると助祭長は、首をのばし、耳をそばだて杖にすがって爪先だちになり、神妙に聞きました。司教様が彼のために祈っておりますと、助祭長は、
 「天上で何人かの声が聞こえます。」
 と、言いました。そこで、司教様は言いました、
 「わたしの師、聖マルティヌス様がこの世を去られ、天使たちが、聖人の霊魂を天に運んでいくところなのです。」

 しかし、そこへ悪魔たちもあらわれて聖マルティヌスを取りもどそうとしました。しかし、聖人には、悪魔の手に落ちるような罪は、ひとつも見つかりませんでした。彼らは、すごすご退散するほかなかったのです。
 助祭長は、この日この時刻を書きとめておきました。そして、あとになってこのとき聖マルティヌスが、亡くなられたことを知ったのでした。

 聖マルティヌスの聖伝を書いた修道士セウェルスは、彼自身がある手紙に書いています。
 「ある日のこと、朝ミサのあと、うとうととまどろみに落ちました。気がつくとわが師マルティヌス司教様が、白い衣を着て立っておられました。顔は、晴れ晴れと燃えたち、眼は星のように輝き、髪の毛は鮮やかな緋衣のようでした。そして、右手にやがて私(セウェルス)が、聖人の生涯を綴(つづ)った本を持っていました。私(セウェルス)に祝福を与えると、ふたたび天にのぼっていきました。私(セウェルス)は、自分もいっしょに天にのぼろうとしましたが、ここで眼がさめてしまいました。」
 それからしばらくして、使いの者が来られてその夜、聖マルティヌスが亡くなられたことを告げました。

 またその同じ日、ミラノの司教聖アンブロシウスは、ミサ聖祭をつとめていましたが、預言書朗読と、使徒書簡朗読とのあいだの時、祭壇に覆い被さるようにして眠りこんでしまいました(脱魂)。だれも、眠りを起こす勇気はなく副助祭も、司教の許可もないのにかわりに書簡を朗読するわけにはいきませんでした。
 しかし、それから二、三時間も過ぎてしまい、もうこのままにしておくこともできず、
 「とっくに時間も過ぎましたし、会衆は、待ちくたびれております。聖主よ、どうか書簡を読むように司教様にお命じください。」
 と言って、聖アンブロシウスを起こしました。すると、司教様は答えました、
 「そんなにやきもきするものではありません。兄弟のマルティヌスが亡くなったのです。わたしは、葬儀に参列し、おごそかにミサ聖祭をあげていました。ところが、あなたがたが起こしたので、最後の答誦(とうしょう)をとなえることができませんでした。」
 そこで、この日と時刻を書き留め、聖マルティヌスがちょうどこのとき昇天したことをのちに判明し裏付けられたのです。

 ヨハネス・ベレトによると、フランスの国王は、戦争に出かけるときは、いつでも聖マルティヌスのカッパをたずさえていくならわしでした。それで、カッパを守護する者という意味でカペラヌスと呼ばれたといいます。カッパ( cappa )は、ポルトガル語から日本語に入り、≪合羽≫ と書かれますが、頭巾の付いたの短袖マントをさします。シャーロック・ホームズが着ているようなコートに似ています。
 聖マルティヌスが、アミアンではだかの乞食に与えたというマント(カッパ)は、貴重な聖遺物として今もパリに保存されていると言います。メロヴィング朝フランク王国以来、フランスの国王は、出陣のさいこの聖遺物のカッパを携行しました。そのために、カペラヌス(Capellanus)とよばれました。フランス語では、Chaplain (従軍司祭の意)と言います。また、この聖遺物を安置している宮廷内の聖所は、カペラ(capella)ととよばれました。フランス語では、chapelle (小聖堂、礼拝堂)のことです。このように、capellanus もCapella も、cappa を語源としています。日本でもプロテスタント系教会を“チャペル”と、牧師を“チャプレン”とか言います。


 聖マルティヌスの死後64年目のこと、トウールの司教聖ペルペトゥス(祝4月7日、没491年)は、聖マルティヌスの教会を豪華に拡張し、聖遺体をそこに移そうと考えました。聖マルティヌスの墓のうえに建てられていた礼拝堂(オラトリウム)を広げて修道用の庵室がついた壮麗なバシリカ(サン・マルタン大修道院)を建てました。しかし、三度にわたって斎食と徹夜課をおこなって祈願したにもかかわらず、どうしても棺(ひつぎ)を動かすことができませんでした。そこで、この計画をもう断念しようとしていたとき、品の良いひとりの老人があらわれてこう言いました、
 「なにをぐずぐずしているのですか。あなたがたが手をくだせば協力してやろうと聖マルティヌスさまが、待ちかまえていらっしゃるのが見えないのですか。」
 そして、ほかの人たちと一緒に棺へ手をかけられました。棺は、難なく持ち上がり現在安置されている場所に運ばれていきました。しかし、その後この老人を見た者は誰もいませんでした。
 この移居記念は、7月4日に祝われます。

 ベネディクト会士クリュニの大修院長聖オド(祝11月18日、878,879〜942年)によりますと、聖遺体を移されたとき、すべての教会でだれも手を触れていないのに鐘という鐘が鳴りひびきき、すべての燭台に灯がともったと言われています。
 また、おなじく聖オドは、
 「そのころ体の不自由をかばい合う仲の良いふたりのおもらい(乞食)がいました。ひとりは、眼が見えず、もうひとりは、足が不自由でした。眼の見えないほうは、足の悪いほうを背負い、足の悪いほうは、眼の見えないほうに道を教えました。こうしてふたりは、組になっておもらいをして歩き、たんまり金を稼いでいました。ふたりは、多くの病人たちが、聖マルティヌスの聖遺体のそばに近づくだけで健康になったという話を耳にしました。
 それで移居の当日、聖遺体を運ぶ行列が、教会の周りをねり歩いたとき、ふたりは、聖遺体が自分たちの住んでいる家のそばを通るのではないか、そして、自分たちもこころならずも健康になってしまうのではないかと心配になりました。
 というのは、健康になったら、収入源を断たれてしまうからです。そのため、彼らは、大通りから聖遺体の行列が通れないと思われる狭い路地に逃げていきました。ところが、そうしてあちこち逃げ回っているうちに、ばったり聖遺体の行列に出会ってしまいました。
 そして、神は、受けることをの望まない人間にも聖寵をお垂れになることがあるものでふたりとも、いやがっていたにもかかわらず、健常な体になってしまいました。
 (きっと、罰として健康にされたのでしょう。)
 しかし、彼らは、健常な体になってしまったことをたいへん残念がりました。」
 と、伝えています。


 聖アンブロシウスは、こう言っています、
 「聖マルティヌスは、異教の多くの神殿をうち壊し、慈悲の旗じるしを立てました。死者たちをよみがえらせ、悪霊つきの人びとの身体から悪霊を追いだし、聖寵の助けを得て病気や障害をとりのぞきました。完徳の人であって、キリストを腕に抱きしめ、貧しい男に与えた下着をじつは世界の救い主に着せたのでした。おお、あなたのやさしさは、神ご自身をも感動させます。あなたがふたつに切った聖なるマントは、王とその騎士を飾ったのです。神性に着せることをゆるされた貴い贈りものよ。
 聖主よ、おんみがおんみにたいする信仰を告白した者が、受ける褒賞をこの人にお与えになったのは、当然のことでした。アリウス派の異端が、聖人に屈服したのは、当然のことでした。彼は、殉教をあこがれていましたから迫害者たちの責苦にびくともしなかったのは、当然のことでした。
 彼は、マントの半分をおんみに着せかけ、おんみは、たかがマント半分のために彼に姿をあらわされましたが、彼が自分の清らかなからだをおんみにささげたことにたいしては、彼に何をおあたえになるのでしょうか。こうして彼は、希望を棄てない人びとに至福をもたらしました。ある人たちは代願によって、また別の人たちは視線によって救われたのです。」





【参考文献】
バルバロ神父訳「聖書」(講談社)
キリスト教美術図典1990年版/柳 宗玄、中森 義宗 編著
Jacobus de Voragine [ Legenda aurea ] ヤコブス・デ・ヴォラギネ「黄金伝説」
訳者:前田敬作・西井 武/発行所:株式会社人文書院
ウキペディア


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