ハンガリーの聖エリザベト X(1231年,祝11月11日)
St.Elizabeth
[伝記]
ハンガリーの聖エリザベト(チューリンゲン、あるいはマールブルク:ドイツ語ではエリーザベト)、(祝11月11日)。1207年マジャール王国建国以来のアールパド朝(ハンガリー)王エンドレU世(ドイツ名アンドレアス:在位1205〜1235年)の娘として生まれる。王妃はオーストリア貴族出身の聖ゲルトルード・フォン・メラーン(フォン・ケルンテン)。政略的理由から一歳にしてのちのテューリンゲン方伯ルートヴィヒW世(1200〜1227)と婚約、1211年五歳のとき、ドイツの風習になれるために旧東ドイツ領アイゼナハのすぐ南西の丘上にあるテューリンゲン方伯の宮廷ヴァルトブルク城につれてこられ、敬虔な方伯夫人ゾフィーに養育された。1217年ルートヴィヒW世は、リヒャルト・ヴァーグナーのオペラ『タンホイザー』≪ヴァルトブルクの歌合戦≫にも登場する方伯ヘルマンこと、父ヘルマンT世(位1190〜1217)の後を継いで即位。1221年14歳のとき結婚、夫との幸福な生活がつづいたが、1227年十字軍に参加したルートヴィヒがイ夕リアで病死すると、夫の兄弟によってヴァルトブルクから子供もろとも追放され、極貧の生活に落とされた。そののちマールブルクにあるアルンシュタイン修道院のプレモントレ会士コンラドゥス(ドイツ名コンラート、1233年没)の尽力によって寡婦産(亡夫の遺産のうち寡婦にあたえられる分け前)として金とマールブルク近在の領地とを受けとった。方伯の死後、コンラドゥス師は、教皇の指示で聖女の後見者にもなった。1229年、マールブルクに大きなフランチェスコ施療院を建て貧しい人たちや病める人たちに奉仕しながらそこで二年ほど暮らしたのち、1231年24歳という若さで夭折した。聖女は、ドイツにおける聖フランキスクス(フランチェスコ)の最初の信奉者となり、1228年フランチェスコ会の第三会員(平信徒)に入会している。
教皇グレゴリウス\世は、聖フランキスクス愛用のマントを彼の願いにより聖女のために送り届けたという。1235年、グレ・ゴリウス\世によって列聖。同時にマールブルクにある聖女の墓のうえに聖エリザベト教会の建造がはじめられた。ドイツにおける最初の完全なゴシック様式の教会建築(最終的献堂式は1285年)である。1236年、聖遺骨が墓からあげられ、このとき神聖ローマ皇帝フリードリヒU世は、聖フランキスクスのマントにくるまれた聖遺骨に自分の黄金の冠をかぶらせたと言われる。
エリザベト( EliZabeth )とは、「わが神は認識された」という意味を持ちそう呼ばれるのは、主が聖女をお認めになったからである。聖女が主の教えに忠実に従っていることを神がお認めになった、及び、神を認識する術を神が聖女に賜物として注がれたからである。
もうひとつは、「わが神の第七の者」という意味を持ちそう呼ばれるのは、≪聖女のなかに神の第七の者がいたから≫,≪聖女は、七つの慈悲の業(わざ)をおこなったから≫,≪いまは平安という第七の身分にあってやがて復活という第八番目の身分に達するから≫,≪聖女は、七つの身分に置かれていたから:七つの身分とは、乙女、妻、寡婦、実践家、観想者、第三会修道女、栄光の国にあげられた現在の身分である聖人≫とされる。この七つの身分は、聖女の聖伝の中に明らかにされ、『ダニエル書(4:20)』のなかでネブカドネザル王について「・・・≪彼の上に七つの時を過ぎ去らせよ≫・・・」と、言われているように聖女についても、「七つの時が聖女のうえをめぐった」と言うことができる。
最後に、「わが神は満たしたまう」と言う意味を持ちそう呼ばれるのは、神が聖女を真理の光、甘味な慈愛、聖三位一体の力で満たされたからである。聖アウグスティヌスが、神の国について書いている言葉、「それは、神の永遠性によって強力であり、神の真理を受けてかがやき、神の慈愛に包まれて喜ぶ」は、そのまま聖女にあてはまる。
中部ドイツを中心に広い範囲にわたって崇敬され、病気治癒の奇蹟があるとされる聖女の墓は、聖エリザベト教会にあり重要な巡礼地となっている。聖女の画像は、方伯夫人として冠をかぶっているが、第三会修道女として手に水差しとパンを持っている慈善事業、第三会会員(信徒会)の保護聖人。
聖エリザベトは、高名なハンガリー王の娘であった。高貴な血を受け継ぎ、信仰と敬虔さとよき手本をしめすことによって高貴な血筋をさらにいっそう高貴にし、あまたの奇蹟と聖徳の恵みによって一門の名を彩り飾った。聖女は、なに不自由のない王家の栄華のなかで育った。しかし、まだ幼い頃から子供の遊びをかえりみず、かえって、それを神の栄光をたたえるものに変えた。そのころから質素な生活を愛し、謙徳に芽吹きはじめていた。まだ、五歳に満たないころから教会でいつまでも熱心に祈りつづけているために遊び友達や侍女たちは、聖女を教会からつれだすのに難儀したほどであった。また、遊んでいる時でも、鬼ごっこでもなんでもそれを口実に遊び仲間を小聖堂のほうに誘いこもうとしているのが見てとれた。そうして、堂内に入るとひざまずくか床にぬかずくかした。まだ文字を読めなかったにもかかわらずよく『詩篇集』を目の前に広げて読んでいるようなふりをした。そのため、だれもそうして無心に祈っている聖女の邪魔をすることはできなかった。また、侍女たちと地面に身をよこたえて背くらべをして遊ぶことがあったが、それは、神に敬意をしめすためだった。輸あそびでも他のどんな遊びのときでも聖女の心は、いつも神さまに向けられていた。小さい頃から自分が勝負に勝ったりご褒美をもらったりするとその10分の1を貧しい子供たちに分けてやり、
「何度でも『主の祈り』を唱え、マリアさまにご挨拶するのですよ」と、教えて聞かせるのであった。少女時代は、修徳の勉強にいそしみ、虚飾の遊びごとを避け、現世の錦衣玉食(きんいぎょくしょく)から遠ざかり、華やかで優雅な宮廷祭儀宴遊観劇から離れ、孤独の中で信心を深めようとした。
こうして大きくなるにつれて信仰心も深く大きくなっていった。そして、聖母を自分の保護者と代願者に選び、自分の純潔を福音史家聖ヨハネの守護にゆだねた。ある時、祭壇に使徒たちの名前を書いた紙札が置かれ娘たちがそれを引くことになった。他の娘たちはみな運まかせで札をとった。しかし、聖エリザベトだけは、まずお祈りをした。すると望みどおり聖ヨハネの名前を書いた札を続けて三度引き当てた。このように聖ヨハネに対する熱烈な愛に燃えていたため聖ヨハネの名において頼まれるとどんなことでも断らなかった。また、世俗的な幸運にめぐまれることをあまり喜ばなかった。勝負ごとをしていて勝運がつくとすぐにそれをやめて、
「もう勝ちたくないわ。神さまのためにとっておくの」と言った。また、親しい娘たちからダンスに誘われてもひとまわり踊ると、
「ひとまわりで止めておきましょう。あとは、神さまにとっておきましょう」と言った。
このようにして仲間の娘たちを現世のむなしい遊びごとから引き離したと言う。聖女は、だらしのない服装をいやがり、いつもきちんとした身なりをしていないと気がすまなかった。毎日いくつかのお祈りを定めておき、何か用事があってはたせなかったり、侍女がむりやり寝床に入れてしまったりすると、夜起きて天の花婿にお祈りをささげるのであった。祝日になると熱心にミサ聖祭にあずかった。その際、ミサ聖祭が終わるまでは、服に袖飾りを縫いつけることを許さなかった。また、主日(日曜日)には、聖主に敬意をささげ、心から思いを寄せるため正午まで手袋をはめようとしなかった。どうしてもこれを守ると誓願を立てていたため決心を変えさせることはできなかった。教会でミサ聖祭にあずかるときは、こころから敬虔な気持にひたり福音書が読まれるときや聖体が奉挙されるときは、袖飾りが縫いつけてあれば、それをほどき、くび飾りや頭飾りもすべてとりはずした。
無垢のまま乙女の操を守り通していたが、はやくも結婚話がもちあがった。これには、父王の強い意志がはたらいていた。加えて、十戒を守ることによって聖三位一体を信仰してきた30の実を受けとる時となっていた。聖女は、父王に対する従順から結婚に踏みきることになった。聖女の気持ちは、肉の喜びのためではなく、ただ父王の命令を全うしようと、子供たちを生み神に仕える人間を育て奉仕したいと願った。聖女は、夫婦生活の掟に従いながらも罪となる快楽におぼれることは、一度もなかった。その証拠に聖女は、
「もし夫より長生きすることになれば、生涯身の貞潔を守って暮らします」と、聴罪司祭でもあるコンラドゥス師の手に誓ったのである。
聖女は、王女の身分にふさわしくテューリンゲン方伯と結婚した。これはまた、天主の思し召しでもあった。なぜなら、聖女を通じて多くの人びとを神への愛に導き無学文盲の人びとを教育しようというのが、天主の御旨だった。結婚によって身分は変わったけれども聖女の信仰心には、いささかの変化もなかった。聖女は、神を心から崇め、へりくだり、自分をきびしく、つつましく律したが、貧しい人たちに対してはやさしく慈愛に満ちていた。
聖女は、神にお祈りをささげるのが何よりも好きであった。教会へ行く時は、いつも侍女よりも先に走っていった。その姿は、待ちに待った親しい人を出迎えてお互いの近況をうちあけるかのようであった。聖女の夫は、
「からだをいたわり、十分に休息をとらなくてはいけない」と、言って聞かせたけれども聖女は、夜中もお祈りをするためにしばしば起きあがった。それでも眠くて起きられないこともあるだろうからとその時は、
「足をさわって起こしてちょうだい」と、いちばん信頼している侍女に頼んでおいた。
ある夜のこと、侍女は、奥方の足にさわるつもりが、まちがって方伯の足をつかんでしまった。方伯は、すぐに眼をさまし間違いだと知った。しかし、彼は、侍女を叱りつけたりせずまた、用心して他言もしなかった。聖女は、自分の祈りが神にとって良き捧げものになるよういつもたくさん涙を流しながら祈った。その涙は、喜んで流す涙であったし、悲しんで泣く時でもその悲しみを喜んだ。その喜びの顔が美しくかがやいた。聖女は、謙虚に身を低くしていたから神に対する愛のためならば、おぞましい、汚れた仕事でもいやがらず、心をこめて実行した。ある時は、頭からひどい悪臭を放つ病気のきたならしい子供をひざに抱いて侍女たちが笑っているのもかまわずにそのきたない髪の毛を刈って頭をきれいに洗ってやったりした。祈願行列の時は、いつでも裸足に粗毛の衣をまとって行列に参じ、途中で説教がおこなわれている間は、名もなき者のように貧しい女たちの間にそっとうずくまっていた。
子供を生んだ後のお清めの時も他の女たちのように宝石を身につけたり金の縫いとりをした服を着たりせず無原罪の聖母マリアの例に倣ってみずからわが子を腕に抱き、小羊と蝋燭と共につつましく祭壇にささげた。そうすることによって俗世の栄華を疎んじ、汚れなき聖母マリアをみならおうとした。そして、宮廷に帰ると教会へ着ていった衣服をだれか貧しい婦人に与えた。
聖女は、誰にも頭を下げる必要のない、身分の高い方伯夫人であるにもかかわらず、一介の貧しい托鉢(たくはつ)修道士にすぎないコンラドゥス師に心から帰依し服従した。それによって妻としての本分にもとるようなことはなく、夫の方伯もそれに同意をあたえたのである。師は、学識と信仰心にすぐれ聖女の聴罪司祭でもあった。聖女は、コンラドゥス師が命じることはなんでも畏敬と喜びをもって実行した。服従の報酬を受けとり死にいたるまで従順であられた主イエズス・キリストを倣うためだった。
ある日のこと、コンラドゥス師は、説教を聞きにくるようにと聖女に言った。ところが折悪しくマイセン方伯夫人(テューリンゲンの東、エルベ川流域にあるザクセン地方の一部で陶磁器の産地マイセン市)の来訪があって、師の言いつけに従うことができなくなった。怒ったコンラドゥス師は、このような不従順を許さず、肌着以外は着ているものをことごとくぬがせて同じ罪をおかした侍女たちも一緒に懲らしめの鞭をくわえさせた。聖女は、自分に対しても厳しく容赦ということを知らなかった。徹夜の祈りや斎食、禁欲、その他の苦行によってわれとわが肉体を苦しめた。
しばしば夫の寝床を離れ、夜通し祈りに没頭し、天なる父とひそかに語りあうこともあった。どうしても睡魔に勝てなくなると地べたに敷物をひいてそのうえでまどろんだ。夫が留守の時は、夜通し祈って天なる花婿とひとつになっていた。ある時は、ピラトによって鞭打たれたもうた主の御受難をせめてでも思いはせたいと願い、また、わが身からすべての欲望を追い祓おうと、自室で侍女たちに自分の身体を打たせた。食事や飲みものも厳しく節制していたゆえ、夫と食卓を共にしてたくさんのご馳走が出てきても主食のパン以外には手をつけようとしなかった。この事に関してコンラドゥス師は、かねてから夫の食事と共にすることを聖女に禁じていたのだった。聖女は、師の言いつけを厳しく守り、他の人たちが賛沢なご馳走を堪能している時でも、使用人の女たちと一緒に粗末な食事しか口にしなかった。それでも、来客がある時は、ちゃんと食卓につき料理に手をつけたりみんなの皿にとり分けたりの給仕役を担い努めて食事を共にしているように装った。周りからは、この奥方は偏見のない人だと思われ、丁重なもてなしぶりに客人たちは、いたく満足していたのだった。ある時、遠出をして疲れきった夫妻の前に普通ではとうてい考えられない入手困難な山海の珍味が出された。聖女は、それらにはまったく手をふれないで侍女たちと一緒に固い黒パンを湯に浸して食べた。そのため、夫の方伯は、聖女と意見をおなじくする何人かの侍女と一緒に暮らせるだけの年金をつけてやった。聖女は、しばしば宮廷での食事を差し控え、志同じくする人たちのところに出かけていって食事をともにすることがあった。しかし、夫の方伯は、これらすべてのことを我慢づよく耐え、
「一門の中に厄介な混乱をひき起こす心配がなければ自分も喜んでそうしたいくらいだ」とも言った。
聖女は、恵まれた地位にあったがひたすら清貧を愛しキリストの貧しさに倣いこの世のすべての塵をわが身から払い落としたいと願っていた。侍女たちとだけでいるような時は、みすぼらしい服をまとい粗末な布を頭に巻きつけて、
「わたくしが貧しい身分になったらこのような格好になるのですよ」と、言ったりした。また、自分自身の生活は、できるだけ質素にしていても貧しい人たちに対しては決して物惜しみしなかった。お金に困っている人があると見過ごせず誰にでも気前よく援助の手を差しのべていたため人びとから「貧者の母」と慕われた。そうして、永遠の王国を手に入れ、永遠に住まい、天なる聖父の祝福を受け、祝せられた人たちと共に聖父の右手に座ることを望んで七つの慈悲のわざを熱心におこなった。
聖女は、着るもののない者に衣服をめぐみ、飢えた者に水とパンをほどこし、貧しい者に食べものを恵み、巡礼者や貧しい人びとの遺体を布衣にくるんで埋葬し、赤ん坊にうぶ衣を着せて洗礼につれていった。しばしば名づけ親を引き受けうぶ衣は、手ずから縫ってやった。そして、援助の手を容易に差しのべることができるように代母にもなった。
あるとき、貧しい女に上等の服を与えたことがあった。女は、高価な贈りものを見るとうれしさのあまり卒倒して死んだようにうごかなくなった。これを見た聖エリザベトは、与えすぎたことが死の原因になったのではないかと心配し後悔した。けれども、その女のために祈ると何事もなかったかのように女は元気に起きあがった。
また、よく侍女たちと一緒に手ずから羊毛を紡ぎ、機を織り、衣服を仕立てた。それによって神から善行の報酬を受け真の謙徳の手本をしめし、自分の労働でこしらえたお供えを神にささげた。
偶然にも夫のテューリンゲン方伯が、当時クレモナにいた皇帝フリードリヒの宮廷に出かけていた時、穀物の値が上がり領民たちは、飢餓(1226年の大飢饉)におびやかされていた。留守中、穀物倉に蓄えてあった小麦を集め、貧しい人びとを国中から呼んで毎日必要分を施(ほどこ)した。貧しい人にわずかしか与えるものがない時は、その日のうちに神が、不足分を補って下さることもあった。また、手元にお金がない場合は、よく自分の装身具を売り払って貧しい人びとを助けた。こうして、自分や侍女たちのお金の一部を差し引いて貧しい人たちに施しをすることを日常とした。
聖女は、渇いた者によく飲みものを与えていた。ある時、貧しい人たちひとりずつに十分な量のビールをふるまって与えたのに甕(かめ)の中のビールは、少しも減らず最初と同じだけの分量が残っていた。
聖女は、巡礼者や孤児を手あつくもてなし、高い城の麓(ふもと)に大きな家を建てさせ、たくさんの病人を看護した。毎日病人たちを見舞い城からの登り降りの苦労もいとわなかった。必要なものは何でも届けてやり、ねぎらいの言葉で病苦に耐えるよう励ました。聖女は、生涯を通じて濁った空気が嫌いだったけれど暑い夏のさかりでさえ神に対する愛のために病人たちの悪臭を我慢し、薬を飲ませてやり、頭に被った布で汗をふいてやり、自身の手で病人をさすってやった。さすがの侍女たちもそこまではしかねた。
それから、同じ施設の中で貧しい女たちの子供たちを育てた。とてもやさしく親切に接したことから子供たちは皆、聖女のことを、『お母さん』と呼び、聖女が施設に訪れると、ひよこが親鳥を慕うように聖女の後をついてまわったり、聖女の前に行儀よく並んだりした。
よく子供たちの遊具にするため小さな壷やガラス玉や他のガラスのおもちゃをプレゼントすることもあった。ある時、城から馬に乗って子供たちにあげる玩具をマントにくるんで届ける途中、高い岩の上からガラスのおもちゃを下の石の上に落としてしまった。しかし、どれひとつとしてひびも入っていなかった。
聖女は、病人をよく見舞って苦しんでいる人たちを心底から気の毒だと思いそういう人たちが入っている施設を捜し出して足しげく見舞いに行きやさしいへりくだった態度で汚れた病室にまで足を運んだ。悪路をものともせず遠い道のりにも疲れを見せなかった。必要なものは何でも恵んで慰めの言葉で力づけてやった。
そのことから聖女は、≪病人を見舞った善行、道中の労苦、慈悲のこころ、慰めの言葉をかけてやったこと、喜捨≫という五つの理由によって天主から報酬を受けた。
聖女は、貧しい人たちの埋葬にもはせ参じ心をこめて野辺送りをした。そして、みずから織った布を死者にかけてやった。あるときは、自分の大きな亜麻布のヴェールを裂いて、それに貧しい人の遺体をくるんだ。自分の手で遺体にもふれ、必ず埋葬が終わるまでそばにつきそっていた。こうした事では、聖女の夫の敬虔な態度も称賛に値するものがあった。彼は、一国の領主として政(まつりごと)にわずらわされることが多かったにもかかわらず、神への奉仕の気持ちに篤かった。しかし、なかなか自分では実行できない立場から神の栄光を讃えることと彼自身の救霊のために必要なことはなんでもしてよろしいという権限を妻の聖エリザベトに与えていた。ところで、聖エリザベトは、夫が信仰を護持するために武器をとることを願って夫に有益な忠告を与え、聖地に出かける決心をさせた。信仰心の篤い方伯は、皇帝フリードリヒU世の第六回十字軍に参加したが、聖地に赴く途中、アドリア海にのぞむオトラントの町(イタリア南部、長靴半島のかかとにあたる部分)で病死した。方伯は、気高く清らかな信仰、謙徳と信心深さのゆえに魂を神にゆだね善行の実を受けることになった。このため聖女は、寡婦の貞潔の実、十戒、『七つの慈悲のわざ』、と言う70の実を受けるために寡婦として生きる道を自ら選んだ。
イエズスは、「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがやさしい」
(マルコ聖福音10:25〜)と言い、「帰って、持っているものをみな売り払い、貧しい人びとに施しなさい。そうすれば、天の宝を持つようになろう」(同10:21)とも教えた。貧者は、すでに天国を約束された人びとであり、富者は、「天の宝」を手に入れるためにまた、みずからの救霊のために惜しげもなく貧者に施しを与え、貧者のなかに主キリストをさえ見て手を合わせた。これが中世人の考えかたであり、聖福音の偽らざる教えであり、そのあらわれが『七つの慈悲のわざ』であった。
しかし、方伯の訃報がテューリンゲン国中に伝えられると、何人かの家臣たちから聖女が国費を乱費したという罪を着せられ、屈辱的な言葉とともに国外へ追放された。
そのことを通して、聖女の忍耐心が大きく成長し、かねてから望んでいた貧しさの中で暮らしたいという念願がかなえられた。ある日の夜、世話になっていた人の家に帰ってきて豚が寝ている部屋にもぐりこみ神に感謝の祈りをささげて休んだ。早朝のミサ聖祭の時刻になると小さき兄弟会の修道院の門口に行き、
「自分の悲運のために神さまに感謝して下さい。そして、私のためにテ・デウムを歌って下さい」と、頼んだ。
悲運は次の日も続き、子供たちを連れて別の家に移るように言われた。そこは、聖女のことを快く思っていない人の家だった。事実、あてがわれた部屋は、ひどく狭く、おまけに主人夫婦は、聖女に対して冷たく邪険な扱いをした。聖女は、その部屋に別れを告げて、
「本来なら、あの人たちにお礼を言って出ていくべきものなれど、情深い人だとはとても思えないので残念だわ」と、言ってはきものの塵を払って立ち去った。そして聖女は、元世話になっていた家にもどることを余儀なくされ子供たちを別々の所に預けて養育してもらわざるをえなくなった。子供たちとは、1222年長男ヘルマン,のちの方伯へルマンU世(位1228〜1241)、1224年長女ゾフィー,のちのブラヴァント公爵夫人(ヘッセン方伯家の祖)、1227年次女ゲルトルート(福者、祝8月13日),のちのアルテンベルク女子大修道院長、の三人とされる。
☆聖エリザベトのひとつのエピソード
極貧の生活に陥ったが、コンラドゥス師の尽力によって亡夫の遺産として寡婦に与えられる寡婦産2万マルクを受けとってその一部を貧しい人びとに施し、残りでマールブルクに大きな施療院を建てた。そのために一般の人びとからは、「財産を溝(どぶ)に棄てたようなものだ」、「あの女は、夫の思い出をかなぐり棄ててしまった」と、言われて非難された。しかし、聖女は、悪口をよろこんで耐え、うれしそうにしていた。
さて、施療院ができあがると聖女は、修道服を身にまとってしがない召使いとして貧しい人たちに奉仕し、慈悲の善行にはげんだ。熱心に彼らの世話をし、からだを洗い、ベッドに寝かせたり、ふとんをかけたりした。聖女は、うれしそうに侍女たちに言った、
「このようにして聖主のご入浴のお手伝いをしたり、ふとんをかけたりすることができるなんて、なんとしあわせなことでしょう。」
聖女の奉仕ぶりは、全く疲れと言うものを知らず、あるときは、全身に疥癬(かいせん)のできている片目の子供を夜中に六たび腕に抱いて厠(かわや)に連れて行き、汚れた敷布を喜んで洗濯した。ひどいハンセン氏病を患った女の体を何度も洗ったり、ベッドに運んで行き、患部をきれいに拭いて包帯をし、薬を飲ませ、爪を切ったり、ひざまずいて靴のひもをほどいたりもした。病人たちに告解をさせ、聖体も拝領させた。また、施療院の仕事をしないときは、ある修道院から送られてくる羊毛を紡いでお金を得て貧しい人たちに与えた。
長らく赤貧の中で暮らしていたある時のこと、自分の財産から50マルクの配当を受けとった聖女は、それを貧しい人たちに分配しようとめいめい自分の席に立つよう言いわたした。自分の席を離れ他の貧者たちのあいだに割りこみ二度目をもらおうとした者は、髪の毛を切り落とす(修道女になること)罰則が、あらかじめ知らされてた。聖女は、財布を腰帯にくくりつけて貧者たちのあいだを順にまわり喜捨をくばって歩いた。
その中にひとり、美しいゆたかな髪の毛をしたラデグンディスという名の乙女がいた。彼女は、喜捨をもらおうと思って来たのではなく病気の姉を見舞いに来ていた。それなのに、違反したと見なされ聖エリザベトの前に連れていかれた。乙女は、泣きながらはげしく抵抗したけれども聖エリザベトは、すぐさま彼女の髪の毛を罰則として切らせてしまった。そのとき、そばにいた人がラデグンディスの無実を証言すると聖エリザベトは、
「こうしておけばこの娘さんは、これから美しい髪をなびかせて踊りに出かけたり、それをひけらかしたりすることもなくなるでしょう」と、答えた。そのあとで乙女ラデグンディスに、
「浄福の生活をしようと思ったことはないのですか」と、たずねた。乙女ラデグンディスは、
「この髪に未練さえなかったらとっくの昔に修道服を着ていたことでしょう」と、答えた。
聖エリザベトは、
「わたしは、あなたの美しい髪が切り落とされたことをわたしの息子が皇帝に選ばれたことよりもすばらしいことだと思います。イエズスの花嫁に呼ばれたのだと悟って大切な髪を聖主に捧げ全てをゆだねなさい。」
乙女ラデグンディスは、すぐさま修道服に身を包み、聖エリザベトと共に施療院に留まった。
☆聖エリザベトの幻視(ビジョン)
聖母マリアをお手本とし、最もすばらしい天の勝利にあずかれるよう神への観想に励んだ。観想している時は、特別な聖寵を受け、涙がひとりでに溢れ出し、しばしば天上の幻視が見え、他の人たちにも神に対する愛をかきたてたと言われている。涙は、清らかな泉から懇々と湧き出てくるかのように聖女の眼から溢れ出し、喜んでいると同時に悲しんでいるようにも見えた。
聖なる四旬節のある日のこと、教会にいた聖女は、まるで神の臨在を眼のあたりにしたかのように視線をじっと祭壇に釘づけにしながら長時間に渡って慰めに満ちた天啓をさずかった。幻視後は、家に帰るとぐったり疲れきって侍女の膝によりかかり、眼を窓ごしに天にむけていた。(幻視というものは、霊的なエネルギーを使うため疲労困憊する。幻視者、霊能者、というものは、霊的な力を使うため病気ではないにしても想像以上の疲労を伴う。)
そのうち、聖女の顔は、喜びに満たされたかと思うとこの世のものとは思えないような笑い声をあげた。それから長時間、甘美な幻視に歓喜していたが、突然顔を曇らせて泣きだした。やがてまた、眼を見開いてもとのように喜びに包まれた。しばらくすると、また眼を閉じて泣き出した。こうして、終課の時刻まで天の慰めにあずかっていた。そのあいだいっさいひと言も口をきかなかった。
ついに沈黙を破って言った、
「おお、主よ、あなたは、わたしと共にいてやろうとおっしゃいます。わたしも、あなたと共にいてどんなことがあってもあなたから引き離されないようにいたします。」
その後、侍女たちは、
「神の栄光を讃えるためにまた、自分たちの信仰心を高めるためにご覧になったことをお話しくださいませ」と、頼んだ。その熱心な懇願に根負けした聖女は、
「わたしは、天が開かれてイエズスさまがわたしにやさしく身をおかがめになるのを見ました。イエズスさまは、明るいお顔をわたしにお見せくださいました。わたしは、そのお顔を拝していますとえも言われぬ喜びに満たされました。そして、イエズスさまが立ち去ろうとされますと、悲しみに打ちひしがれました。すると、主は、わたしを憐れまれてもう一度お顔をお見せになってこうおっしゃいました、
『あなたがわたしとともにいたいと願うならば、わたしは、あなたとともにいるのです。』
そこでわたしは、さきほどあなたがたが聞いた言葉をお答え申しあげたのですよ。」
侍女たちは、
「祭壇のところでご覧になった幻は、どういうものだったのでしょうか」と、尋ねた。
「あのとき見たものは、どうしてもお話しすることができません。あそこでは、大きな喜びに包まれながら神の奇すしきみ業を眼のあたりにしたのですから。」
聖エリザベトがお祈りをしている時、その顔は、不思議な輝きをおび、その眼は、太陽のように光を放った。また、聖女の祈りは、熱烈を極め、時として他の人びとをも燃えあがらせることがあった。聖女は、あるとき流行のしゃれた服装をした若い騎士に会ったので自分のところに呼んでこう言った、
「あなたは、贅沢な生活になじんでいらっしゃるようですが、あなたの造り主にお仕えしなくてはいけません。わたしが、かわりに神さまにお祈りしてあげましょうか。」
若者は答えた、
「お願いします。ぜひそうして下さい。」
聖女は、自分でもおなじようにしてお祈りをしなさいと相手に言ってから、祈りはじめた。すると若者は、たちまち大きな声をあげて、
「祈るのをやめて下さい」と叫んだ。
聖女は、さらに一心に祈った。若者は、さらに大きな声をあげた、
「やめて下さい。死にそうだ。焼けてしまいそうだ。」
実際、全身がかっかと熱くなり、汗をかき、湯気をたて狂ったように手足をばたばたさせた。人びとが駈けつけて来てなんとかとり押さえたが、衣服は、汗でびしょ濡れになり体は、手をふれられないほど熱かった。それでも若者は、
「火のようだ。焼きつくされそうだ」と、わめき続けた。
聖エリザベトが祈り終わると若者は、熱が下がり、我に返って平静さを取り戻した。この若い騎士は、その後、聖寵の光を受けて小さき兄弟会に入った。それによって聖女の祈りが、火のような愛熱を持っていることが明らかになった。この熱は、どんなに冷たい心でも燃えたたせるほど大きかった。しかし、若い騎士は、肉の世界(現世)にだけ住んでいたので霊のこと(霊界)は、理解できていなかった。
☆聖エリザベトの臨終
聖主が最愛の者をこの世の牢屋からご自身の手元にお召しになる時が近づいてきた。そして、キリスト御自身が聖女に現われて、
「さあ、選ばれた人よ、わたしが用意してあげた永遠の幕屋に来るのです」と、言われた。
聖女は、熱にうなされながら顔を壁にむけて寝ていたが、枕元にいた人びとは、このとき甘味な歌声を聞いた。侍女のひとりが、
「これはなんでしょうか」と、たずねた。聖女は、
「小鳥が一羽やってきて、わたしと壁の間にとまっているのです。その歌声があまりにも美しいのでわたしも、つい歌ってしまいました」と、答えた。
聖女は、この病気の時も楽しくて決してお祈りを忘れなかった。死の前日、聖女は、
「もし悪魔がやってきたらあなたがたは、どうするのでしょう」と、言った。
しばらくすると、大きな声で、
「出ていけ。出ていけ。出ていけ」と、三度叱りつけた。悪魔を追い払っているかのようであった。それから、
「もうまもなく真夜中です。聖主、花婿キリストは、真夜中に生まれ、かいば桶で眠ることを望まれました」と、言った。
西暦1231年11月11日、臨終の時を迎え、
「全能の神が、その友らを天上の婚礼にお招きになる時が来ました」と、宣言されてやすらかに永眠した。
聖女の遺体は、四日間埋葬されずに置かれてあったがいやな臭いは少しもせず、かえって馨しい芳香が立ち昇って多くの人びとを喜ばせた。聖女が死んだ時、教会の屋根飾りの上にこれまで誰も見たこともないたくさんの鳥の群れが見えた。鳥たちは、美しい声で麗しくさえずっていた。鳥たちが、聖エリザベトのために死者ミサを共にあげているかのごとく多くの人びとは、これを見て心を打たれた。貧しい人たちや町衆も泣き悲しみ、心から哀悼の意を表した。ある者は、聖女の髪の毛を切りとり、ある者は、衣服の一部を切って、だいじな聖遺物としてしまいこんだ。遺体を墓に納めたあとしばらくして、遺体におびただだしい香油があふれていることがわかった。そのため、早くも聖エリザベトの死に際し、高い聖性に達していたと証明された。
第一に、あの小鳥の歌、天使が永遠の喜びを告げに来たと言うのは、誠に大きな聖徳だった。聖女と壁との間にとまって一緒に歌わずにはおれなかったほどかわいい声でさえずったあの小鳥は、聖女の守護天使だったとされる。天使は、永遠の喜びを聖女に告げに来たのだろう。聖女が歌ったのは、天使のお告げを受けて心にはかり知れないほどの歓喜を感じ、自身の胸におさまりきれず湧き溢れ、天使の讃歌に共鳴し、甘味な声となって歌わずにはおれなかったのだろう。一方、悪魔が恐れをなして逃げていったこともそのあらわれであった。悪魔は、何らかの訴える権利をもっている場合は、臨終の聖人たちのもとに押しかけることも許されているが、聖エリザベトに対しては、何の権利も持っていなかったから退散する以外なかった。神から見はなされた悪人は、時として死ぬ前に堕地獄を知らされて大きな恐怖に襲われる(それは改心の最後のチャンスとなる)ことがある。同じように選ばれた人たちは、この世の最後に永遠の至福を告げられて大きな慰めを受けることがある。
第二に、聖女の大きな貞潔と純潔が明らかになった。その証拠は、聖女の遺体から立ち昇ったかぐわしい香気である。聖女の肉体は、生前は貞潔と純潔に輝いていたから死後も甘味な芳香を放たずにはいなかった。
第三に、聖女が特別に高い聖品位を持っていたことが明らかになった。あの鳥たちのさえずりがその証明だった。聖女の魂を天に運び、天上の讃歌で聖女の肉体に敬意をあらわすために神から遺わされた天使たちだったとされる。なぜなら、悪人が死ぬと大勢の悪魔どもが集まって死者をさんざん苦しめ、さいなみ、地獄へその魂を奪い運んでいくが、聖人が死んだ時は、死者を力づけ、その魂を天国に運んでいくために天使たちの軍勢が現われるからである。
第四に、聖女が大きな慈悲心を持っていたことが明らかになった。それは、聖遺体から香油があふれ出たことによってわかる。聖女の生涯は、慈悲のわざにあふれていたから聖なる香油が溢れ出た。聖遺体が香油に満たされていたことは、聖女の中にあった慈悲の心が広大無辺だったことの印とされる。
われらの救い主イエズス・キリストのある真正の手紙
われらの主イエズスが、カルワリオへの路上で流された御血の滴を聖とすること。
われらの主イエズス・キリストのエルサレムにおける聖墓所の中で発見され、教皇聖下、キりスト教を信じる王や女王によって銀の箱に保存された演説の手紙の写し。ハンガリーの女王聖エリザべトは、聖マチルダ及び聖ビルジタと共に、イエズス・キリストの御受難について何かを知ることを望んで熱心な特別の祈りを捧げた。それに対し、われらの主イエズス・キリストは彼等に御出現になり。次のようにおおせられた。
「私はあなた方を改心させるために天国から地上に降った。
昔は人々は敬けんで、彼等の収穫は豊かであったが、現在はそれに反して収穫は乏しい。
もしあなた方が豊かな収穫を刈り取りたいのであれば日曜日に働いてはならない、なぜなら日曜日には放会へ行き、神にあなた方の罪を赦して下さるよう祈らねばならないから。
神はあなた方に労働のための6日と休息、信心、貧者達への救済の提供、教会への援助のための1日をお与えになったのである。
私の宗教に反対して口論し、この聖なる手紙に中傷を投げつける人々は私に捨てられるであろう。
それと反対に、この手紙の写しを身につけて持ち運ぶ人々は溺死や突然の死を受けないであろう。彼等はすべての伝染病と雷から自由であろう。
彼等は罪の告解なくして死ぬことはないであろう。また彼等の敵、不正な政府、彼等のすべての中傷者や偽証人達から自由であろう。
出産に際し危険状態にある婦人達は、この演説を彼等の身辺に保存することにより、直ちに困難を征服できるであろう。
この演説が保存されている家ではいかなる災難も決して起らないであろう。そしてこの演説を身の周りに持っている人には死の40日前に聖母がお現れになるであろう。」
聖グレゴリウスはそういわれた。
第1.あなたの罪の全免償と赦免。
第2.あなたは煉獄の苦しみから自由であろう。
第3.もしあなたが前記3年間を完了せずに死んでも、あなたにとってはそれを完了したのと同じであろう。
第4.あなたの死の際、あなたはあたかも聖なる信仰のために、あなたのすべての血を流し尽したのと同じであろう。
第5.私は天国からあなた及びあなたの第4代までの親族の霊魂を連れに降って来るであろう。
「次のことを知らしめよ。私を取り囲んだ武装兵士の数は150人であった。私が縛られていた時私を引きずって行った者は23人であった。裁判の死刑執行人は83人であった。私の頭に受けた打撃は150回、腹には108回、肩を蹴られた回数は80回。私は髪をひもで縛られ、24回引きずって行かれた。顔に受けた唾は180回。私は体に6666回、頭に110回のむち打ちを受けた。私は荒々しく突かれ、また12時には毛髪で吊り下げられた。いばらで刺され、ひげを23回引張られた。頭には20箇所の傷を受けた。いばらのとげは72個、とげによる頭の刺傷は110個、額の上に致命的なとげが3個。その後私はむち打たれ、嘲弄の王衣を着せられ、体に1000個の傷を受けた。私をカルワリオに引き立てて行った兵士は608人、私を見張っていた者は3人,私を嘲弄した者は1008人、私が落した血の滴は28,430滴であった。」
Benedetta DAS.S.,Pope Leo]V,In Roma 5 Aprile 1890. |
大聖ゲルトルードに対する祈り
一回唱えるたびに煉獄の霊魂1,000人を救うことができる。
永遠の御父よ、煉獄のすべての霊魂と、いたる所に存在する罪人のため、全教会の中の罪人のため、そしてわが国と、わが家族の中の罪人のために、われは今日、全世界で棒げられる、ミサ聖祭で一致して、御子イエズスのいと尊き御血を捧げ奉る。 アーメン。 |
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