ヒエラルキー[hierarchie]論の著者:パリの聖ディオニシウス・アレオパギタ[ドニ]


べルショーズ/サン・ドニ祭壇画「聖ドニの殉教」

べル・ショーズ:サン・ドニ祭壇画 「聖ドニの殉教」
Bellechose [Le retable de Saint Denis.]

〔べルショーズの描いたサン・ドニ祭壇画について〕
 1416年アンリ・ベルジョーンズ(ブラバント出身)作、ブルゴーニュ公家に仕えた画家。
 王弟ブルゴーニュ公は、墓所として造営したディジョン近郊シャンモールのカルトゥジオ会修道院聖堂の祭壇画に王国の守護聖人聖ドニの物語を選ぶ。金地を背景に中央に「恩寵の座」による三位一体図を置き、左右に聖ドニ殉教の2場面、左にキリストによる処刑前夜の聖体拝領、右に斬首の場面が描かれている。同行の二人のうち一人はすでに首を落とされ、司教冠を戴いた聖ドニの上に斧が振り下ろされようとしている。右端には両手首を縛られたもう一人の同行者が立っている。


パリの聖ディオニシウス(ドニ)
X AD96(祝日10月9日)
F.Denis de Paris L Dionysius Parisiensis.


[伝記]
 初代のパリ司教。ローマ教皇聖クレメンスは、聖ディオニシウスをフランス(ガリア)に派遺し、96年頃パリで殉教した。ジャン・ド・ロノア(17世紀)によれば、ディオニシウスは聖パウロから受洗してアテネの司教となり、のち「パウロは、彼らの中から去ったが、彼につき従って信仰を得た人々もあった。その中にアレオパゴのディオニシオ、ダマリスという婦人、その他の人々もあった。―使徒行伝17:33―」にみられる聖ディオニシウス・アレオパギタは、アテネからガリアに赴き、初代パリ司教となり、司祭ルスティクスと助祭エレウテリウスとともにモンマルトルで殉教したと信じられている。聖パウロから授洗しているから殉教年がAD250年とするのは間違いか、3世紀中頃ファビアヌス教皇により、ガリア布教のために派遣された同名の司教と混同していると考えられる。
 ローマ皇帝への忠誠を怠ったかどで司祭と助祭の2人(聖ルスティクスと聖エレウテリウス)と共に、生皮剥ぎ,鉄灸あぶり,野獣の餌食,釜ゆでなどの拷問を受け、いずれも耐えたので牢へ戻された。同夜キリストが現われ、彼に聖体を拝領させた。ついに彼は剣により、2人の弟子は斧によって斬首される。処刑の直後、聖ディオニシウスは立って、自分の首を手に殉教の場モンマルトル(殉教者の丘)から彼の墓の場所まで3マイルを歩いたという。のちに、彼の遺骨は現在の聖ドニ大修道院聖堂へ移された。
 中世のフランスでは、聖ディオニシウス(聖ドニ)はフランス王国の守護聖人として崇敬され、その名にちなむサン・ドニ修道院は王家の墓所として重視されていた。十四救難聖人の一人。

 聖人の名前にあやかって著作されたと思われる天使の階級(ヒエラルキー[hierarchie:ドイツ語])論:偽ディオニシウス・アレオパギタ(Pseudodionysius Areopagita:10〜11c、ギリシャのプラトン主義哲学者とされる)の著『天上階序論』(330年頃)の図式は、12〜3世紀のスコラ哲学派のボナヴェントゥーラ・ダ・バニョレージョ「セラフィムのごとき」やトマス・アクィナス「天使的博士」、ヨハンネス・エックハルトらによって洗練された。
 しかし、聖ディオニシウス・アレオパギタ本人のギリシャ語著作物であることは、黄金伝説からも裏付けられる。このことから、改革者やプロテスタント側のご都合による批判から(偽)とされていたが、見直しが必要と判断する。
つまり、“聖人の名前にあやかって著作された”聖人ご本人の著作であると信用するに足りる。


黄金伝説に記された聖ディオニシウス・アレオパギタ殉教録


 聖ディオニシウスは、聖ペテロと聖パウロがローマで皇帝ネロに捕らえられ、牢獄に入れられたと知ると、司教区を別の司教に委譲し、二人に会うためローマへ出かけた。両使徒が主のみもとに旅立ち(AD6468頃殉教)、その後、聖クレメンスがローマ教皇になると、聖クレメンスは、しばらくしてから聖ルスティクスと聖エレウテリウスを聖ディオニシウスに同行させてフランス(ガリア)に派遣した。ここからパリの聖ディオニシウス(フランス名;サン=ドニ)の事跡が語られる。
 彼は、パリに着くと多くの人々を回心させ、キリスト教信者とし、たくさんの教会を建て、さまざまな品級の聖職者たちを叙品した。神の恩寵の光が彼の五体から輝いていることは、だれの眼にもはっきりとわかった。たびたびあった事件に偽神の神官たちは、民衆を煽動して彼らに反乱を起こさせ、武器を手に大挙して押し寄せて来たまではよかったが、聖ディオニシウスの顔を見るやいなや誰もみな借りて来た猫のようにおとなしくなり、彼の足もとに跪くか、怖ろしくなって一目散に逃げ出すのがおちだった。
 そのためキリスト教の信者が増え、悪魔の領分が日一日と狭くなった。教会が凱歌を奏でるのを見て悪魔は、猛烈な嫉妬にかられた。そこで、皇帝ドミティアヌスの胸に憤怒の炎を焚きつけ、
 「キリスト教徒を見つけ次第力ずくで神々に供香させ、それでも応じなければ厳しい拷問にかけて殺してしまえ」と、言う命令を出させた。
 ガリアの地も長官フェスケニヌスが、キリスト教徒掃討のためにローマからパリに派遣された。フェスケニヌスは、人びとに教えを説いている聖ディオニシウスを見つけるやすぐさま捕らえて、拳(こぶし)でめった打ちさせた。聖ディオニシウスは、顔につばを吐きかけられ、さんざんあざけられたうえ、丈夫な皮ひもで縛り上げられ、聖ルスティクスおよび聖エレウテリウスの両聖人ともども長官の前に引き出された。聖人たちは、毅然としてキリストに対する信仰を告白してはばからなかった。その時観衆の中から、ひとりの身分の高い婦人がすすみ出て、
 「わたしの夫ルビウスはこのけしからぬ魔術師どもに誘惑されたのです」と、訴えた。彼女の夫は、既に逮捕され、少しも屈しないまま信仰を守り続けたためすぐその場で処刑された。聖人たちは、12人の兵士たちに笞(むち)で打たれた後、重い鎖で縛られ、牢に入れられた。翌日、聖ディオニシウスは、鉄の火格子のうえに裸で寝かされ、その下には火が炎々と燃えさかっていた。彼は、主を讃(たた)えて、
 「あなたの約束は、まことに確かです。あなたのしもべは、これを愛します」(詩篇119:140)と、歌った。
 次に、人びとは、彼を火の中から引きずり出して、長いあいだ餌を与えないで飢えさせておいた猛獣どもの前に投げ出した。獣どもは、猛然と襲いかかろうとしたが、聖人が猛獣に向って十字を切るとたちまちおとなしく静かになった。今度は、大きな炉の中に投げ込まれたが、火はすぐに消え失せ火傷(やけど)もしなかった。その次は、十字架に打ちつけられ、長い間大きな苦しみを受けた。やがて十字架から降ろされ、処刑の前晩、仲間の聖人たちや多くの信者たちと一緒に牢に寝かされた。彼は、それでも立って信者たちのためにミサ聖祭をあげ、聖体をさずけようとした。その時、主イエズスがホスチアを手に持って光とともに現われ、
 「わたしの愛子(いとしご)よ、これを受けなさい。あなたが受ける最大の報酬は、わたしのもとにあるのですから」と、言った。
 翌朝、聖人たちは、長官の前に引き出され、新たな拷問を加えられたのち、メルクリウスの柱像のそばで至聖三位一体に対する信仰を告白しながら3人そろって斧で首を落とされた。すると、聖ディオニシウスの首のない体は、毅然と立ち上がって自分の首を両手にかかえ、一位の天使に導かれ、天上の光に包まれて3マイルの道のりを歩いて行った。
 今日≪モンマルトル(殉教の丘)≫と呼ばれているところから彼が自ら選び、神の思し召しによって今も安らっている場所まで歩いて行ったとされる。
 この時、天使たちの妙なる歌声が聞こえた。これを聞いた多くの人々は、信仰にめざめた。先に述べたルビウスの妻ラエルティアも、
 「わたしはキリストを信じます。」と、おおやけに叫んだ。彼女は、その場で異教徒どもに首を刎(は)ねられ、自らの血による“血の洗礼”を受けた。聖女の息子ウィルビウスは、ローマへ行き、3人の皇帝の元で兵役に服した後、パリに戻り、受洗して修道士となった。

 ところで、異教徒たちは、キリスト教徒が聖ルスティクスと聖エレウテリウスの遺体を埋葬するのではないかと心配して遺体をセカナ川(セーヌ川の古名)に投げこむように命じた。しかし、心ある貴族の婦人が、人夫たちを食事に招き、彼らが食事をしている隙に聖人たちの遺体を盗み出し、自分の地所の中にこっそり埋葬させた。時が過ぎ、キリスト教徒迫害の嵐がおさまると遺骸を掘り出して聖ディオニシウスのかたわらに安置した。
 この三聖人が殉教したのは、主の紀元96年、ドミティアヌス帝の頃だった。聖ディオニシウスは、享年90歳だった。
 (聖パウロが殉教した年代が、AD6468年とされるから、聖ディオニシウスと聖パウロの出会い及び12年間共にした後、聖ディオニシウスの年齢を約30〜60歳と予想すれば、前後のズレを考えてもおおよそ、AD94128年の間に殉教したと充分考えられる。AD250年と言うのは考えられない。)

 AD520年頃に書かれた最も古い殉教録によると、聖ディオニシウスは、≪使徒たちの一後継者≫(教皇のことで、黄金伝説ではクレメンスT世である)によってルスティクス、エレウテリウスと共にパリへ宣教のため派遣され、初代パリ司教となり、そこで殉教し、パリの町はずれ約5キロのところ(サン=ドニ)に葬られた。その墓の上に建てられた教会と数々の奇蹟については、既にトゥールのグレゴリウスが、『フランク史』やその他に書いている。
 但し、グレゴリウスは、ディオニシウスを250年教皇ファビアヌスによってローマからガリアへ派遣された7人の司教のひとりとしている。ところが、約9世紀初期の記録にあるようにこの250年に派遣された同名司教ディオニシウスと初代パリ司教聖ディオニュシウス・アレオパギタとの結合がおこなわれたと考えられる。

 827年、聖ディオニシウス・アレオパギタの諸著作(いわゆる『偽ディオニュシウス文書』)がサン・ドニにもたらされて聖ディオニシウス崇敬の新時代がはじまった。フランスで発祥したこの崇敬は、それ以来、オリエントにまで伝播し、聖パウロの弟子は、ようやく故郷に凱旋する。聖ディオニシウス・アレオパギタは、フランスの守護聖人のひとりでまた、十四救難聖人(危急のさい聖人の名を呼んで代願を求める)のひとりでもある。祝日は10月9日。聖ルスティクスは司祭、聖エレウテリウスは助祭であったと言う。共に聖人で聖ディオニシウスと同じく祝日は10月9日。 しかし、現在では聖列から外されていると言う。
 サン・ドニ修道院聖堂入口のテュンパヌム(タンパン)の浮彫りには、三聖人の殉教譚が描かれている。

 ある時、アルルの町では、司教聖レグルス(フランス名:リュウル、聖人。祝日3月30日 or 4月23日。9世紀以降に書かれた幾つかの伝説的な伝記があり、それによるとパリの北北東50キロ、静かな森にかこまれた古い保養地となっているサンリスの初代司教とされる。歴史的根拠のない別の記録では、聖ディオニシウスと同じく教皇クレメンスT世によってガリアに派遺されたとなっていることもあれば、もとアルルの司教であったと書かれていることもある。あるいはもっと後代のデキウス帝、またはディオクレティアヌス帝時代の人だとしている記録もある)が、ミサ聖祭をとりおこなっていた。彼は、ミサ典文の中の使徒たちの名前を読みあげた後に、
 「おんみの聖なる殉教者ディオニシウス、ルスティクスおよび、エレウテリウスともども」と、付け加えた。聖レグルス司教は、そう唱え終えてから、典文にない三聖人の名前を無意識に付け加えたことに我ながらびっくりした。と言うのも彼は、この3人の神の僕たちはまだ生きているものとばかり思っていたからである。しかし、その驚きが納まらないうちに三羽の鳩が現われて祭壇の十字架の上に留まった。鳩の胸には、殉教した三人の名前が血で書かれていた。聖レグルスは、瞳(ひとみ)を凝らして鳩たちの姿を見つめているうちに三聖人たちが既に殉教したことを知った。そして、ここに語られる三羽の鳩の奇蹟は、サン=ドニ聖堂のステンドグラスのメダイヨンに描かれている。


 聖ディオニシウスは、信仰の道に入る前異名を幾つか持っていた。住んでいた町の地区名にちなんでアレオパギタと呼ばれ、≪神を知る人≫の意味でテオソポスとも呼ばれた。また、ギリシアの学者たちからは、今日に至るまで彼が地上の知恵の翼で天にまで飛翔したことから≪天の翼≫という意味のプテリュギオン・トウ・オウラノウと呼ばれる。
 ≪至福の人≫という意味でマカリオスとも呼ばれた。彼の故国の名にちなんでイオニコスとも呼ばれた。イオニコスは、≪イオニアの(人)≫の意味でイオニアは、小アジア海岸部の一部とエーゲ海東部の島々とからなる古代の地域。紀元前1000年頃からギリシア人の植民がおこなわれ、12の都市国家を建設、芸術や哲学が栄え、詩人ホメロス、哲学者タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、ピュタゴラスなどを輩出した。その中でアテネの植民が多かったことからイオニア人と言えば、アテネ人を指すようになった。
 11世紀、イタリアの事典編集者パピアスも書いているようにギリシア語のひとつは、イオニア語と言うし、イオニア様式円柱があり、二個の短音綴と二個の長音綴をもつ詩脚のことをイオニア韻脚と呼ぶ。パピアスのアルファべット配列聖書事典は、百科事典的な性格をそなえ、当時1世紀以上にわたって重宝された。
 聖ディオニシウスは、隠れたものを探し求めたから主を知る人であり、神を観想したから天の翼であり、永遠なるものを所有したから至福の人であり、イオニア人らしく雄弁であったから偉大な説教家であり、その説き明かしは教会をささえる柱であり、自分自身に対してへりくだって短く、隣人への愛の心は大きくて長かった。
 聖アウグスティヌスは、『神の国(第八巻)』で哲学学派のひとつにイオニア派があると言う。哲学者を二派に分けてひとつは、イタリア人学派であり、もうひとつはイオニア人(ギリシア人)学派である。聖ディオニシウスは、偉大な哲学者であったから哲学の分野からもイオニコスという名で呼ばれた。
 ランスの大司教ヒンクマルスによれば、彼の生涯と殉教をギリシア語で書かせたのは、コンスタンティノポリスのメトディオスで教皇聖庁の司書アナスタシウスが、ラテン語に訳したと述べている。司書アナスタシウスは、ローマ人(生年不明、没879年)で、847年聖マルケルス(サン・マルチェロ)教会の司祭枢機卿となる。西ローマ皇帝ルドウィクスU世と手をむすび勝手にローマを離なれ、教皇レオW世から破門された。レオW世の死後、その後継者となったベネディクトゥスV世(位855〜858)に反対して対立教皇となったが失敗。その後復権、トラステーヴェレの聖マリア修道院院長、ローマ教会司書となり教会政治に影響力を与えた。ギリシア人修道士たちから教育を受けたため、ギリシア語文献の翻訳が多く、いずれも価値が高いとされる。いわゆる『ディオニュシウス・アレオパギタ殉教記』は、翻訳より訳述と言うべきで彼が、カール(シャルル)禿頭(とくとう)王のために書いたものだとされる。




 聖ディオニシウス・アレオパギタは、使徒聖パウロによって回心させられ洗礼を受けてキリスト信者となった。彼が住んでいたアテネの町の一地区の名にちなんだアレオパギタとは、ギリシア語でアレイオパゴス、≪アレースの丘≫と言われ、かつてその場所に“アレースの神殿”があったとされる。アテネの人びとは、町の各地区に崇拝する神々の名をつけた。だから、アレースが拝されていた地区は、アレイオパゴスと名づけられた。アレースとは、ローマ神話のマルス(マーズ:軍神)のこと。高津春繁氏の『 ギリシア・ローマ神話辞典』によれば、アレイオパゴスは、アテネのアクロポリス北西にある標高115メートルの石灰岩小丘でアレースの神殿があったのではなく、その頂上においてアテネ最古の会議または、裁判のおこなわれた場所だった。海神ポセイドーンの子ハリロティオスを殺害した軍神アレースが、ここで最初に裁判を受けたことから名づけられたと言う。他には、パーンを崇拝する地区は、パノパゴスと呼ばれた。パーンは、ギリシア神話の牧人と家畜の神で上半身毛むくじゃらの人間、ひげを生やし、頭に角をもち、下半身は山羊、有蹄の足をもった姿で想像された(サテュロスとも言う)。ギリシアの哲学者たちは、≪すべて、森羅万象≫を意味する pan と関連させて宇宙の神だと考えた。
 アレイオパゴスには、貴族の宮殿や七学芸の学校があったから町の中でも特に有名な地区だった。聖ディオニシウスが住んでいたのは、このアレイオパゴス地区だった。彼は、神のごとき力と知恵を豊かにそなえていたので“テオソポス ≪神の知者≫”という異名でも呼ばれた。彼の哲学の仲間アポロパネスもここに住んでいた。また、人間の幸福は肉体の快楽にあるとするエピクロス派や心の平静さの中に幸福を求めるストア派もいた。

 さて、主のご受難の日、暗闇が全地上を覆った時、アテネの哲学者たちは、この暗闇が自然現象の結果であるとは考えられなかった。この暗闇は、自然の日蝕ではなかった。日蝕は、太陽と月が重なり合う時にだけ起こるものでこの時、月は太陽の軌道から離れていた。その日は、十五夜で月は、太陽からいちばん遠いところにあった。また、日蝕は、地上のすべての部分から光を奪うわけではなく、3時間も続かない。しかし、この日の暗闇は、地上のあらゆる場所から光をうばった。この出来事は、福音史家聖ルカが述べていることから明白で、「時刻は、すでに第6時(昼の12時)ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって第9時(午後3時)におよんだ」(『ルカ聖福音書』23:44)。(他の共感福音書同一箇所も参照、『マタイ聖福音書』27:45,『マルコ聖福音書』15:33)。そしてまた、苦しみを受けられた方が全世界の主であったということからも明らかである。さらに、エジプトのへリオポリス,ローマ,ギリシア,小アジアでも観測されたことは、明白である。
 ローマで見られたことは、オロシウスの証言がある。オロシウスは、「主が十字架におかけられになったとき、大きな地震が全地に起こった、山々の岩は裂け、大きな町々もこの未曾有の震動のために方々で崩壊した。この日、太陽は、第6時からにわかに暗くなり夜の闇が地上に降りてきた。そのため、真昼間だというより怖ろしい夜だというのに全天の星が全て見えたほどであった」と、書いている。
 この暗闇は、エジプトでも見られた。聖ディオニシウスは、アポロパネスにあてた手紙の中でそれを回想している。この手紙は、≪偽ディオニシウス文書≫に含まれている手紙のひとつで聖ディオニシウスの友人である哲学者アポロパネスが、実在の人物であるかどうかは未詳であるが、「わたしたちの師である。パウロさま」という聖ディオニシウスの言葉からすると、アポロパネスものち、パウロによって回心してキリスト者となったのだろう。
 「全地は、一様に濃い闇に覆われました。しかし、わたしたちは、日輪が再び明るい姿を見せてからピリッポス・アルヒダイオス(当時の天文学者かとおもわれるが実在の人物かは未詳)の法則によって計算した結果、案の定、これが正規の日蝕でないと判断しました。そして、わたしは、あなたに質問しました。
 『偉大な学識の宝庫よ、これは、わたしたちのまだ知らない秘義です。知識の鏡であるアポロパネスよ、ここにどのような神秘があるとお考えですか』と。すると、あなたは、神のような口と精神をもって答えられました。『わが友ディオニシウスよ、これは、神的な事柄のなかに異変があったのです』と。その後、わたしたちの師であるパウロさまが忘れもしないその不思議な日蝕のあった年と日を説教の中ではっきりと告げられたことがありました。それで、よく調べてみた結果、すべてのことにおいて一致する事がわかりました。ようやくわたしは、真理と手を結び、誤謬の戒めから逃れることができました」と、聖ディオニシウスは、書いている。
 彼はまた、ポリュカルポスに宛てた手紙の中でもこのことに触れ、自分とアポロパネスが経験したことを書いている。
 「わたしたちふたりは、その当時ヘリオポリスにいて、不意に月が太陽の前に出たのを一緒に見てびっくりしました。なぜなら、月と太陽が重なり合う時期ではなかったからです。それから、夕方の第9時にもう一度月を見ましたが、この時、月は太陽から離れ、自然の法則に反して太陽と向かい合った位置に戻っていました。わたしたちが見たところでは、日蝕は、太陽の東側から始まり、西の端まで欠け進み、太陽が欠け始める場所と再び光が射してくる場所は、同じではなく反対の側でした。それから元の太陽に戻りました。」
 これは、聖ディオニシウスが、天文学を学ぶためアポロパネスと一緒にエジプトのヘリオポリスへ留学した頃に起こった。彼は、この後またアテネに帰ってきた。

 この異常な日蝕(暗闇)が、アジアでも見られたことは、エウセビオスが証言している。彼の『ギリシア人と異邦人の年代記』に彼は、異教徒たちの書物で読んだこととして、
 「小アジアの国ビテュニアでこの時、大地震が起こり、これまで見たこともないような日蝕があったと書いている。第6時に昼が暗い夜に変わり、空に星が見えた。しかし、ビテュニアの町ニカイアでは、地震のためにすべての家が倒壊した」と、その出来事を記している。

 『聖書物語』によると、
 「哲学者たちは、『宇宙の神がもだえているのだ』という見解を出した」と、別の個所では、
 「哲学者たちは、『自然の正常な秩序がくつがえったか、四大がわれわれをたぶらかしているのだ。あるいは、宇宙の神が苦しみ、四大がそれに同情しているのだ』と、言った」とも記され、また、
 「『われわれが不可解で怪しく思っているこの新しい夜は、真実の光が世界に到来することを告げている』と、ディオニシウスが言った。」とも記されている。
 そう言う理由でアテネの人々は、この神のために祭壇を設け、そこに≪知られざる神に≫という銘を刻んだ。と言うのも祭壇には、必ずどの神に捧げるかを明記する慣わしになっていた。人びとが播祭(はんさい)や生贄(いけにえ)の動物を捧げようとすると聖ディオニシウスとアポロパネスは言った。
 「この神は、わたしたちの供物を必要とされません。祭壇の前に跪(ひざま)ずいて、祈りを捧げなさい。この神が喜ばれるのは、動物の生贄ではなく、魂(たましい)の信心なのです」

 聖パウロが、アテネにやって来るとエピクロス派もストア派も、たちまち聖パウロとの論戦に熱中した。
 「このよく喋る男は、何を言わんとするのかさっぱり見えん」と、言う哲学者もあれば、
 「この男は、新しい偶像神を宣伝しているのだろう」と、言う者もあった。
 そこで彼らは、この新しい教義をじっくり検討しようと聖パウロを哲学者たちの住む町の一角に連れていって、
 「あなたは、われわれがまだ耳にしたこともない教義を語っておられる。それがどういうことなのか、じっくりご教授いただきたい」と、言った。
 アテネの人たちは、新しいことを見たり聞いたりするのが3度の食事(めし)よりも好きだった。聖パウロは、神々の祭壇の間を歩いていてその中に≪知られざる神に≫と書かれた祭壇に眼を留めた。そして、哲学者たちに言った。
 「あなたがたは、未知の神を崇拝しておいでだが、この神こそ、わたしが宣教している天地を創造されたまことの生ける神なのです。」
 そう言ってから、神の問題について他の人たちよりも優れた知識を持っているらしく思えたディオニシウスに向かって、
 「その知られざる神とは、どういう神だと思いますか?」
ディオニシウスは、
 「それは、まことの神でいらっしゃいますが、他の神々の中に姿を現さなかったため、どのような神でいらっしゃるのか、わたしたちには想像もつきません。しかし、いずれ将来はこの世に現われて永遠に支配なさるに違いありません」と、答えた。
 聖パウロは、尋ねた。
 「その神は、人間でしょうか?それとも、霊にすぎないのでしょうか?」
 ディオニシウスは、
 「そのかたは、神にして人なのです。けれども、天にだけいらっしゃるため、わたしたちには知られざる神なのです」と、答えた。
 聖パウロは言った。
 「わたしが宣べているお方も、その神なのです。天からご降臨になり、人間の姿をとり、死の苦しみを受け、三日目によみがえられ、天に昇り、神の玉座におられるのです。」
 ディオニシウスと聖パウロの間にこのようなやりとりがおこなわれていたとき、たまたまひとりの眼の見えない人が、そばを通りかかった。ディオニシウスは、すかさず聖パウロに言った。
 「あなたが説いている神の名においてこの眼の見えない人に≪眼をあけなさい≫と言って、この人の眼が本当に見えるようになったら、あなたの神を信じよう。けれども、呪文などを唱えてはいけません。もしかすると、あなたはあやかしの術を心得ておられるかもしれませんからね。ですから、わたしがこの盲人に言う文句を指定します。『おとめより生まれ、十字架に釘けられ、死してのちよみがえり、天に昇りたもうたイエズス・キリストの御名において言う。眼が見えるようになりなさい!』と、こうおっしゃって下さい。」
 しかし、聖パウロは、
 「あらぬ疑いをかけられたり、邪推を受けたりしてはたまりませんから、あなた自身が今の文句をその人に向って宣言してみてくれませんか!」と、ディオニシウスに頼んだ。
 それでディオニシウスは、盲人に向って、
 「おとめより生まれ、十字架に釘けられ、死してのちよみがえり、天に昇りたもうたイエズス・キリストの御名において言う。眼が見えるようになりなさい!」と、言った。
 すると、その人は、たちどころに眼が見えるようになった。これを見たディオニシウスは、妻のダマリスをはじめ家族みんなと一緒に聖パウロから洗礼を受け、信者となり、12年間聖パウロについてキリスト教の教義を教わった。後に、アテネの司教に叙品されると、アテネの町やこの地方で宣教に励み、多くの人々をキリスト教の信仰に導いた。
 さて、聖パウロは、アテネに在住した12年間、第三の天に昇げられた出来事や視たことを聖ディオニシウスに語って聞かせたとされる(第二コリント12:2)。聖ディオニシウス自身も、著書のいたるところでひそかに打ち明けている。そのため彼が天の階層、聖秩、天使階級と区分と職能などを相当詳細且つ、明確に著述している。他人から聞いた伝承とはとても信じられず、まるでみずから第三の天に昇げられ、そこですべてを見て教えられきたとしか思えないような語りかたで綴られている。
 また、聖ディオニシウスが預言の霊に満たされていたことは、彼がパトモス島に流されていた福音史家聖ヨハネに宛てた手紙からも伺える。彼は、使徒聖ヨハネがふたたび島から戻って来られるであろうと預言して、
 「お喜び下さい。親愛なる、なつかしき、愛すべき、やさしい友よ。あなたは、パトモスの牢屋から解放されるでしょう。あなたは、アジアの地にお帰りになられ、主キリストに倣い、あとにつづくわたしたちの良き手本を示し、ご遺産と下さるでしょう」と、書いた。
 他にも聖ディオニシウスは、彼が『神名論』の中に書いているところから、聖母マリアがお亡くなりになった時、彼もその場に立ち会ったと推察できる。

 9世紀初頭、ルドウィクスT世の首席司祭、ヒンクマルスの師にあたるサン・ドニ大修院長イルデュアン(没840 or 844)が、『聖ディオニシウス殉教記』を書き、聖ディオニシウス・アレオパギタは、ローマから派遣されて殉教を遂げたパリの初代司教聖ディオニシウスと同一人物であるとした。こうして聖ディオニュシウス・アレオパギタとその著作は、中世全体を通じて高い権威をもち、聖トマス・アクィナスもこれを援用し、スコラ学や神秘思想に大きな影響を及ぼした。
 近世になってロッテルダムのエラスムス(1466〜1536)や宗教改革者たち、プロテスタント神学者たちによってその史実性が疑われ、これら一連の論文を偽書とする批判が出された。さらに、19世紀末になってカトリックの神学者たちもその信憑性を疑い、これらの論文は、『偽ディオニシウス文書』と呼ばれるようになった。しかし、その影の執筆者に関しては、憶測の域を出ず、たぶんシリアの一修道士であったろうとか外にもいろんな名が挙げられ、有力な定説は今だない。 ここから、5世紀末か6世紀初頭の人と思われている教会著述家が、聖ディオニシウス・アレオパギタ(ディオニュシオス・ホ・アレオパギテス)の名前で新プラトン主義的な神秘主義的傾向の強い一連の神学論文を書いたとされるようになった。
 これは、悪魔によって偽りの霊と知識を吹聴されそそのかされた宗教改革者たちとプロテスタント神学者たちによって何の根拠もなくでっちあげらた批判であり、その結果、神聖な書物を疎んじられるようになった始末である。
 『偽ディオニシウス文書』に含まれているものは、『神秘神学』『神名論』『教会の階層について』『 天の階層について』の四論文と11通の書簡が、今日残されている。

 聖ディオニシウス・アレオ・パギタとは、使徒聖パウロによって回心し、アテネの初代司教になったとされる「アレオパゴスの裁判人デオヌシオ(『使徒行伝』 17:34)」のことであって、一連の論文は、たいへんな評判となり、まもなくギリシア語からラテン語にも訳された。
 聖ディオニシウスが、聖パウロや聖ヨハネの話を後世の遺産としてギリシャ語で記録したことは容易に推察されるし、彼が観想家、哲学者であったことからも著述家だったことは、当然考えられる。今で言う神学者のパイオニアだったことが伺える。
 言及しておくが、ランスの司教ヒンクマルスは、敬虔王ルドウィクスT世の末子で≪禿頭王≫と呼ばれたカール(シャルル)王U世(フランク王としてはT世:ほぼ今日のフランスに近い領域を統一し、875年西ローマ皇帝を戴冠)に宛てた書簡の中で、
 「宣教のためにガリアに派遣されたこのディオニシウスは、ディオニシウス・アレオパギタと同一人物である」と、述べているし、ヨハネス・スコトゥス(810年ごろ〜877年頃)もカール王に宛てた手紙の中でおなじことを証言している。
 ヨハネスは、エリウゲナとも呼ばれる。アイルランドの生まれで845年ごろカールU世の招きを受けパリに召還、宮廷学校の校長となった。9世紀におけるカロリング・ルネサンスの最も重要な哲学者。聖ディオニシウス・アレオパギタの注釈によって初期スコラ学に新プラトン主義を導入し、ポエティウスの注解によってスコラ学方法論の成立を促した。858年頃、カールU世の依頼で『偽ディオニシウス文書』をラテン語に翻訳。それを土台にして主著『自然の区分』 において汎神論的要素の強い一元論的世界観を展開した(867年頃)。
 これに異論をとなえる人たちもあるようだが、年代の計算をしてみても、食い違いはまったくない。プロテスタントの神学者が偽作として揶揄し、批判する理由は、少なくとも彼らが、カトリック(公教会)から分裂した正統な言い訳(よりどころ)をするには、この書物が障害となるからである。教会の位階制は、ヒエラルキーとして初代教会から神の啓示によって言明されているからであり、神の目からすれば、宗教改革者やプロテスタント教会の主張は、神の神秘体である教会を分裂に至らせる根拠(理由)として全く認められない訳である。そのせいか、彼らの言い分(宗教改革)は、悪魔が神に反抗するのと同じくらい愚かなことだったことを素直に認める神学者や牧師たちは、現在皆無に等しい。しかし、21世紀は、偏見や人間の欲望、主義主張によって曲げられた過去の歴史の再構築(真実の証明)が、必要とされる時代だと感じている。

 ディオニシウス(Dionysius)とは、≪いそいで逃げる者≫の謂である。あるいは、「2」を意味するdyoと≪高めること≫を意味するnisusとから来ていて、ふたつの点で高められだ者、すなわち肉体とたましいを高められた者という意味である。あるいは、この名前は、美女神ウェヌスをあらわすDiana と≪神≫の意のsyos とに由来し、神にむかって美しい者という意味である。さらにまた、ディオニシウスは、ディオニシア(dionysia)から来た名前であると言う人たちもいる。このディオニシアというのは、イシドルスによると酔いざましに効く黒い宝石であると言う。すなわち、≪いそいで逃げる人≫は、世俗を軽蔑する人は、世俗からいそいで逃げ、内面の観想によって自らを高める。
 聖ディオニシウスは、神のおん名に関する著書『神名論』の中で、神を観想する3つの段階を区別している。
 第1の段階は、感覚的知覚によって神を観想し、
 第2の段階は、精神的創造を通じて、
 第3の段階は、直接の合一によって観想する。
 彼は、徳の飾りによって神に対して美しく、罪人の罪の酔いを醒ますのに効く薬石である。
 ある年代記によると、主の紀元644年頃、ピピンV世よりずっと前に王位にあったフランク王ダゴベルトゥスT世は、幼いころから聖ディオニシウスをたいへん崇敬していた。だから、ある日、父王ロタリウスから大目玉を食らいそうになった時なども、急いで聖ディオニシウスの教会に逃げて行ったほどであった。
 さて、このダゴべルトゥス王が死んだ時、ある信心深い人が幻視を見た。それによると、王の魂は、裁きの庭に呼び出され、多くの聖人たちは、王に教会を荒らされたと言って訴えた。そこで、喜んだ悪魔たちは、王の魂を地獄に引き立てて行こうとした。すると、そこへ聖ディオニシウスが現われ、聖人のとりなしで王は地獄の責苦を逃れることができたという。王の魂は、もう一度もとの肉体に戻って、贖罪をは果たしたとされる。

 主の紀元816年頃、ルドウィクス王T世(彼は、政治的成功を治めなかったが、修道士的信仰心を持ち、教会や修道院への寄進によってキリスト教文化の発展に大きく尽力した。)の時代に、コンスタンティノポリスの皇帝ミカエル(「主の紀元816年ごろ」という年代とすこしずれるが、東ローマ皇帝ミカエルT世(位811〜813)か、ミカエルU世(位820〜829)のどちらかとされる。両帝の間にレオW世(位813〜820)がいる。)の使節は、数ある贈品のひとつとして、ギリシア語からラテン語に訳されたディオニシウスの階層に関する著書(『 教会の階層について』と『天の階層について』の二書のこと)をカール大帝の子ルドウィクスにささげた。この贈りものはルドウィクス王を大変喜ばせた。そして、その夜、聖ディオニシウスの教会(今日のサン=ドニ大修道院聖堂)で19人の病人が快癒するという奇蹟が起こった。

 475年ごろ聖ディオニュシウスの墓のうえに建てられた小聖堂が、その開基である。伝承によると、451年のフン族侵攻のさい代願によってパリを破壊から守り、パリの保護の聖人とされる聖女ゲノウェウァ(フランス名:ジュヌヴィエーヴ、祝日1月3日)が建てたという。
 630年メロヴィング朝のダゴベルトゥスT世は、これを大きく改築し、みずからもここに葬られた。これが破壊されたあと、ピピンV世が750年再建にとりかかり、775年にカール大帝によって完成された。敏腕家の修道院長シュジェ(位1122〜1151)は、1137年から1140年にかけてこれにかわる修道院聖堂を建てた。これがフランス・ゴシック様式の発祥となった。この頃からサン=ドニ聖堂は、フランスの王たちの墓所となり、フランス全教会の首位をしめ、聖俗界に大きな力を持つようになる。聖王ルイ\世は、1243年から1281年にかけてこのシュジェの建築に純ゴシック様式のバジリカを増築させた。これが、現在のサン=ドニ大修院聖堂である。サン=ドニの発展、フランス王家との関係などについては、渡辺昌美氏の『フランスの聖者たち』(大阪書籍)を参照。

[図像]
 司教職にあったことを示す司教冠が持物。中世では特に自分の切断された首を手に歩む姿で表現された。この首は無帽あるいは司教冠を戴く。頭に少しも傷がなく、手に首を持つという2頭首の像もある。絵画では斬首された首から血がほとばしり出る。盲目となった聖人に代わって2天使が首を持って先導する像もある。




【参考文献】
バルバロ神父訳「聖書」(講談社)
キリスト教美術図典1990年版/柳 宗玄、中森 義宗 編著
Jacobus de Voragine [ Legenda aurea ] ヤコブス・デ・ヴォラギネ「黄金伝説」
訳者:前田敬作・西井 武/発行所:株式会社人文書院
世界美術大全集/冨永良子 解説 他

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