童貞殉教聖女アナスタシア X 304年(祝12月25日) St.Anastasia
[伝記]
聖アナスタシアは、ローマ貴族の娘だった。父親のプラエタクサトゥスは、異教徒だったが、母ファウスタは、キリスト教徒だった。そのため娘は、少女時代に母と聖クリュソゴヌス(聖人、祝11月24日。ローマにあるジャニコロの丘南東麓に現存するサン・クリソゴノ教会は、建立者自身によってか聖人の名を冠している。452年のアッティラひきいるフン族に滅ぼされるまで大都会として繁栄していたイタリアトリエステ湾近くの町アクィレイアで4世紀初めのディオクレティアヌス帝時代に殉教。)から、キリスト信仰をもちつづけるにはどうすればよいかを教えられた。その後、聖女は、こころならずもプブリウスという名の青年と結婚させられてしまった。しかし、聖女は、純潔を守ることを固く決め病弱のふりをして夫との交わりを避けた。
ある時、プブリウスの耳に、
「アナスタシアは、粗末な身なりで女中をひとりだけつれて密かにキリスト教徒たちのとじこめられている牢を訪ね施しを与えている」と、言う者があった。そのため、聖女に厳重な見張りをつけ、食事も必要量に満たないわずかしか与えさせなかった。夫は、聖女を殺し、あとに残った莫大な財産で放蕩三昧の暮らしをしようという魂胆だった。聖アナスタシアは、不安の中で死を思い、聖クリュソゴヌスに傷心の手紙を幾度か書き送った。聖クリュソゴヌスは、平安と慰めの返書を送った。そうこうしている内に、夫の方が先に死んでしまった。
聖女は、監禁から解放され、三人の美しいキリスト教徒の女中を召すようになった。三人は、姉妹で一番上はアガペ、二番目はキオニア、三番目はイレネという名だった。ある時、裁判官の「偽神に供香せよ」との命令に三姉妹が服従しなかったため、裁判官は、料理道具などをしまっておく小部屋に監禁させた。三人に情欲をおぼえた裁判官は、そのあとで自分が小部屋に行き情をとげようとした。ところが、部屋に入るなり幻覚に陥り気が狂って鍋や釜を相手に娘たちを抱いているつもりで抱擁をしたり接吻をしたりした。望みを遂げたつもりで部屋から出てきた彼は、ずたずたに破れまっ黒になった服と異様な恰好をしていた。戸口の外で待っていた彼の下僕たちは、てっきり悪魔だと早合点し、その汚らしさに彼を殴り逃げ去った。裁判官は、自分の身なりがどうなっているのかも知らず、皇帝のところへ行ってそれを訴えようとした。ところが、 皇帝の従者たちも汚らしい気ちがいがやって来たと思って棒で殴りつけ、顔につばを吐きかけ、汚物を浴びせかけた。しかし、裁判官は、殴られて良く目も見えなかったせいもあり自分の異様な風体がわからず、他の人たちと同じ白い服を着ているものと思っていた。ところが、これまで敬意をはらってくれていた人たちまでが、みんなで彼を笑い者にするからどうも怪しいといぶかっていると、誰かが見られた様でないことを彼に教えてやった。ついに彼は、
「これは、あの娘どものしわざだ。わしに魔法をかけおったにちがいない」と、邪推した。
さてその後、裁判官の眼を楽しませるために三姉妹を連行し、
「今すぐ着ているものを全部脱がせて裸にせよ」と、命じた。けれども、三人の衣服は、体にしっかりとくっついていてどうしても脱がせることができなかった。この不思議な奇蹟のあと、なぜか裁判官は、大いびきをかきながら眠りこんでしまい、呼んでも叩いても二度と眼をさまさなかった。しかし、三人の姉妹たちは、そののち殉教したと言われる。
一方、聖アナスタシアは、皇帝によって別の裁判官にゆだねられた。この裁判官は、もし偽りの神々に供物をささげさせることができれば、聖女を妻にしてもよいという許可を皇帝からもらっていた。彼は、聖アナスタシアを自分の部屋に連れ込んだまではよかったが、彼女に抱きつこうとしたとたんに眼が見えなくなった。あわてた裁判官は、よたつきながらもおぼつかない足取りまま急いで偽神たちの神殿に走った。裁判官は、
「また眼が見えるようになるますか」と、尋ねた。偽神たちは、
「おまえは、聖女アナスタシアを悲しませた。それで、我々の配下におかれてしまった。これからは、永久に我々の地獄で責めさいなまれなくてはならない」と、答えた。
下僕たちが意気消沈した彼を家に連れて帰って来たが、まだ手を離さないうちに彼は息絶えた。
その後、聖アナスタシアは、また別の裁判官にゆだねられ彼の監視下に置かれた。今度の裁判官は、聖女が持つ潤沢な金銭と財産に眼を付け、彼女にこっそり耳打ちをした。
「アナスタシアよ、良きキリスト信者でありたいと志すならお前の神の命令を実行に移すことだな。お前の神は、『所有物をことごとく放棄しない者はわたしの弟子になることはできない』と、言っているではないか。だから、おまえが持っている財産をみんな我によこすがよい。そして、どこへでも好きなところに行ってよい。そうすれば、本物のキリスト信者になることができよう。」
聖アナス夕シアは答えた、
「主は、『持っているものをすべて売って貧しい人びとに施せ』と、命じられたのであって、『金持ちに与えよ』と、言われたのではありません。あなたは、金持ちです。ですから、わたしがあなたに何かを与えたらそれこそ、主のご命令に背くことになります。」
このため聖アナスタシアは、厳重な牢に入れられ、餓死させられることになった。しかし、それより以前に殉教した聖テオドラ(聖女、祝4月1日。132年ローマで斬首され殉教したローマ女性)が、まる2ヶ月のあいだ天上の食物で聖女アナスタシアを養い続けた。
神の定められた婚宴の席、天国への時が近づいた後、聖アナスタシアは、他の200人の乙女たちと一緒にジェノヴァ湾の東、ラスベツィア市の近くにあるパルマリア島に送られた。多くの人たちがキリストの聖名のために島流しにされたところである。
数日後、裁判官は、すべてのキリスト教徒を集めさせ、聖女アナスタシアを杭に縛りつけ火刑(焚刑)に処した。さらに、他の人たちをもいろいろな方法で殺した。その中に、キリスト信仰のために莫大な財産を何度も奪われた人がいた。彼は、
「あなたたちもこれだけは、わたしから奪うことができない。キリストだけはな」と、絶えず叫び続けていた。
アポロニアが、聖アナスタシアの遺体を引きとり自分の家の庭に丁重に葬った。その後、聖女の遺体の上に教会を建てた。聖女が殉教したのは、287年に帝位したディオクレティアヌス帝治政下304年の頃、パルマリア島あるいは、ユーゴスラヴィアのアドリア海に面したダルマティア地方の内陸部にあるシルミウム(現スレムスカ・ミトロヴィツァ市、当時ローマ人の植民都市)で殉教したとされる。古くからローマで崇敬された聖女アナスタシア(Anastasia 祝12月25日)は、〔上へ〕を意味するanaと〔立っている〕〔立っていること〕を意味するstasis とに由来する。その意味するところは、聖アナスタシアは、悪習から美徳へと上昇し、高くに立っていたからである。
図像では油壷をもち、薪を積み上げたさらし台にしばられている。鋏を持っていることから、報道記事検閲の保護聖人。頭痛および胸部疾患に効験ある代願者である。
殉教者聖クリュソゴヌス X 287年頃(祝11月24日) St.Cryusogonus
[伝記]
ローマの殉教者、聖クリュソゴヌスは、ディオクレティアヌス帝の命令で獄に投じられていた。差し入れを持っていって獄中の聖人を助けたのは、聖女アナスタシアであった。しかし、聖女自身が夫の手で監禁される身になってしまったため聖女は、自分を信仰の道にみちびいてくれた聖クリュソゴヌスに手紙を書いた。「キリストの聖なる信仰告白者クリュソゴヌス様へ、アナスタシアから挨拶をお送り申しあげます。わたくしは、無信仰な男性と結婚させられてしまいましたが、神さまのお恵みのおかげで病身と偽わって夫婦の交わりを避けてまいりました。そして、夜も昼もわたくしたちの主イエズス・キリストさまに倣おうとつとめております。しかし、夫は、わたくしの莫大な財産のおかげで世間に顔を利かせているにもかかわらずその財産を奪って、破廉恥にも勝手に処分し、湯水のように浪費して偽神たちを崇めております。そして、神殿を汚す魔女のようにわたくしをきびしく監禁しております。このままでは命ももたないのではないかと思えるほどでございます。もう、生きる望みもかなわず死に捕らえられるほかありません。この死は、栄光であるとしましても神さまに捧げると誓いましたわたくしの財産を外道の者たちと偽神に食い潰されるのだと思うと心残りでなりません。神の人クリュソゴヌスさま、お別れでございます。わたくしのことをいつまでも心の片隅におかけくださいますように。」
聖クリュソゴヌスは、次のような返事を書き送った、
「あなたの信心深い生活の中で不愉快なことが起こっても勇気を失わないようにこころがけなくてはなりません。くじけてはいけません。あなたは、破滅するのではなく試練を受けているだけなのですから。やがては、よりよい日々が帰って来るのです。夜の闇が過ぎれば、昼の美しい光を仰ぐことができます。冬の寒さのあとには、金色にかがやく陽春が訪れて来るのです。では、主があなたとともにおられますように。わたしのためにも主にお祈り下さい。」
聖女アナスタシアの監禁は、苛酷を増し最後には一日にパンを四分の一足らずしか与えられなくなった。聖女は、もう死ぬと思い、聖クリュソゴヌス宛てに次のような手紙を書いた、
「キリストの信仰告白者クリュソゴヌスさまにアナスタシアが挨拶をお送り申しあげます。わたくしの生涯の終わりの日がとうとうまいりました。わたくしの最後の手紙をお読みくださいましたら、聖主が、キリストへの信仰ゆえに受けている苦しみを耐え忍んでいるわたくしの魂をお受け入れ下さいますようあなたが聖主へ祈りを捧げる時にどうか、わたくしを思い出してお願いして下さい。」
聖クリュソゴヌスは、また返事をしたためた、
「闇が光に先立つというのは世の常であるごとく病気の後には健康が戻って来ます。そして、真の命も死のあとに約束されています。死がこの世の幸せと災いに幕を降ろすのは、悲しめる人たちが希望を失わず、幸福な人たちがたかぶらないようにするためなのです。現世という海のなかには、たくさんの小舟がただよっています。この小舟と言うのは、わたしたちの肉体のことです。肉体の小舟を操っているただひとりの舵手は、魂です。荒れ狂う波に対して頑丈な小舟もあれば、張りぼての小舟もあります。ひ弱な小舟は、海が静かな時であろうと常に死と背中あわせですが、たとえそうだとしても目標の港に行き着くことはできるのです。おお、神の婢(はしため)よ、魂のすべてをあげて十字架という勝利のしるしをつかみなさい。そして、神のみわざをむかえる用意をしなさい。」
そのころ、ディオクレティアヌス帝は、アクィレイアに行き多くのキリスト教徒を殺害した。さらに、聖クリュソゴヌスをも引いてこさせると、
「神々に供香し、お前の家柄にふさわしい総督や執政官の地位に復帰するがよい」と、言った。
しかし、聖クリュソゴヌスは、
「わたしは、天にましますただひとりの神だけを拝みます。そして、あなたのおっしゃる高い位や身分など塵ほどにも思いません」と、答えた。
判決がくだされた。聖クリュソゴヌスは、ひと気のない場所につれていかれ、そこで首を刎ねられた。主の紀元287年(祝11月24日)ごろのことであった。彼の遺体と首を葬ったのは、ゼルスという司祭であった。
伝説的殉教録によれば、もとはローマ帝国の高級役人だった。聖アナスタシアとその母親の宗教的師(聴罪司祭)でもあった。ディオクレティアヌス帝によってローマの獄中からアクィレイアへ連行され、斬首され、遺体を海に投げこまれたが、海の波、あるいは魚たちによって岸に運ばれて来たのをゼルス(または、ゾイルス)と言う司祭の手で埋葬されたという。歴史的実在性の疑わしい聖人と言われるが、トラステーヴェレにあるクリュソゴヌス名儀聖堂の建立者だと言う説と、4世紀最初の十年間、アクィレイアの司教だった同名のクリュソゴヌスという説とがある。
5,6世紀に成立した殉教録の作者は、トラステーヴェレの名儀聖堂建立によって崇敬されていたクリュソゴヌスなる人物の縁起を書こうとしたが、墓の所在地に困り、かつて同名の司教が存在したアクィレイアを殉教地にしたというのが真相であるらしい。
彼の死亡日とされる11月24日の祝日も、はじめはこの教会が聖別された日であり、5世紀および6世紀の記録にこの教会の名が記載されているが、「クリュソゴヌス名儀聖堂」とあるだけで「聖」 という文字が名前についていなかったと言う。現在のサン・クリソゴノ教会は、その後何度か改築と増築を重ね、20世紀初頭から三度(みたび)おこなわれた発掘の結果、三層から成っており、最下部はローマ帝国時代の邸宅であることがわかった。
彼の聖遺物は、11世紀にヴェローナに運ばれ、その後、南ドイツのテーゲルンゼーに移された。また、シュライスハイム(ミュンヒェン市の北10キロにある町)の教会の祭壇画(15世紀)では、長衣(チュニック)のうえに大きなひだのあるマントをはおり、ビレッタ(聖職者のかぶる角帽)をかぶり、大きな剣を持ちものにしている。ラヴェンナのサンタンドレア(聖アンデレ)教会の礼拝堂(オラトリオ、6世紀初め)および、サンタポリナーレ・ヌオーヴォ教会(6世紀中葉)に聖画が描かれている。
|